松井善典さん 浅井東診療所

松井善典(まついよしのり)さんは、長浜市にある浅井東診療所の所長を務めておられます。副所長の宮地純一郎先生と学生時代に出会い、関西での家庭医療実践拠点と学べる場を増やしたいという思いからお2人でこの診療所に着任されました。診療所での診察、往診、特別養護老人ホームの嘱託医など、24時間365日の対応をされていますが、いつも先生たちは朗らかで元気な印象を受けます。その背景にあるものや、そもそも「家庭医」とはということについて、お聞きしました。

(令和3年11月5日 浅井東診療所にて)

家庭医について教えてください。総合診療医、かかりつけ医という言い方も耳にしますが同じですか?

家庭医はファミリーメディスンという欧米の学問の翻訳だと思われているのですが、その前から、日本語として「家庭医」という言葉はありました。
日本で「プライマリ・ケア」という、住民の身近な医療を支えるお医者さんを育てようという動きが1980年に起こりました。指導医がいろんな国に行って、家庭医療とか総合診療を学んで帰ってきました。そのときは、アメリカで勉強すると「ファミリーメディスン」で「家庭医療」、欧州だと「ジェネラルプラクティス」「ジェネラルメディスン」で「総合診療」となり、地球のどちらで学んで来たかで言葉が違うということがあります。
家庭医療は一貫して学問、学会ということできていて、総合診療の方は大学病院の総合診療部とか、総合診療医という政策ワードとしてきていたので、学問ワードと政策ワードが併走している感じになっています。
1980年代に、地域や患者さんに対して責任を持つとか、主治医であるということの機能を「家庭医機能」と提唱していたんですけど、当時の医師会がそういう制度を作ることに反対するという動きもあり、「かかりつけ医」という言葉になって「家庭医機能」がそのまま「かかりつけ医機能」という言葉に置き換わりました。国による専門医制度ではなくて、任意の努力目標という曖昧なものにすることで、いろんな人が参画可能な概念にしたというところがあります。

では、どういうものが本質的な家庭医機能、かかりつけ医機能かというと、家族丸ごと診てもらえるということ。病気じゃないときから相談ができること。そして急変時に往診に来てくれたり、病院に紹介状を書いてくれること。さらに言うと介護が必要になったときに、主治医意見書を書いてくれること。つまりその方の生活と医療をつなぐインターフェースというか、橋渡し役というのが本来的なかかりつけ医の機能です。

ただ、やはりこれは努力だけではできません。例えば特養の嘱託医という仕事にしても、施設内で急変した人がでた場合でも、土日だと連絡がつながらなくて救急車対応をせざるを得ないとか、平日も外来が終わってから診に来てもらうのもマンパワーの限界で難しいということもあると思います。なので、家庭医という言葉とかかかりつけ医という言葉の中に、それは専門性を言っているのか、機能を言っているのか、それとも名前だけなのかということはよくよく見分けないと難しいということがあります。

なぜ家庭医になろうと思われたのですか?

住民に一番求められている医療だということからです。手術をしたいとか、こういう病気で困っている人を助けたいということより、そこに暮らす方々に一番必要とされるお医者さんとは何だろうということを、結構こだわって考えていました。先にそれがあって、そこに家庭医という概念が入ってきた感じです。
もともと僕は小児科志望で医学部に入ったんです。僕の中では漠然と、この辺りの地域の小児科クリニックのお医者さんになって、子供を連れてきたお母さんとかおばあちゃんも一緒に診察できるといいなと思っていました。大人になってから、ヘルスリテラシーを学ぶとすごく難しいし、その方の人生もある程度完成されているので、周りの小学校とか中学校の保健体育の授業を受け持って教壇に立つ小児科医がいいなというのも、最初に思っていた夢でした。滋賀医大4年生のときに小児科の先生に進路相談をしたときに、このことを話したら「それは50歳になってからやな」と言われました。「まずは神経とか循環器とかもあるし、うちの大学は血液腫瘍とかにも力を入れてるから、どれにする」みたいなこと言われ、急に夢が断たれた感覚になりました。

一方で、地域医療で有名な先生方のところには結構出入りしていて、もうお亡くなりになられましたけど、京都のわらじ医者と呼ばれていた早川一光先生もそのお一人です。2年生のときから毎月、衣笠まで滋賀医大生の有志で行って、そこで地域医療の実際等について早川先生とディスカッションをしていました。自分の思いと、こうして出会ってきた人たちと、最後は家庭医療という学問・概念に出会うことで、もう5年生ぐらいのときには家庭医一筋という状態になっていました。

「地域」の捉え方を教えてください。「地域を診る」というのは何を指しますか?

2つあると思うんですけど、一つは地理的なエリアですよね。100キロ先の人まで診ることはできないけれども、半径何キロ以内の人だったら往診できるという地理的な地域ということです。
もう一つはある特徴とかある属性の人たちが一定数いる、という言い方もできると思います。例えば、外国人という地域もあるでしょうし、一人で子育てしているお母さんたちというのもあるでしょうし、もちろん老々世帯もあるでしょう。ちょっと逆説的かもしれないですけど、いないはずの人をいると仮定するとか、上がっていない声があるだろうという仮定で働くことが必要だと思います。

僕らは、症状や病気がないと出会えない存在なんです。だから、風邪をひいた患者さんと出会って「こんな人が地域にいたんや」とか、検診に異常があったということで受診されて初めて「こんな人がこの地域にいたんだ」という連続です。同じ地理的なエリアに住んでいても、そういうある属性とか、もっといえば困難とか生きづらさを持った人がいるということを知らないまま働いていることが多いんです。
なので、地域を診るとか、地域を知るというのは、詳しくなるとか理解するだけじゃなくて、絶対に見えないものがあるはずだとか、気づいてない課題があるはずだという前提に立つということではないかと思います。また、一つの施設を地域として見立てて、その「地域課題」は何だろうとか、その「地域の強みとか歴史」は何だろうというのも、いい視点になります。

浅井東診療所外観

福祉関係者は特に医療との連携の大切さを説かれますが、うまく連携できるコツは何だと思いますか?

これも二つあります。まず、支援員の皆さんが、ケアをする障害のある方とかご高齢の方とかの、一番の困りごとや関心を持っていることを把握しているかどうかということ。そしてそれを医者に伝えているかどうか。まず、ここでずれが起こると、医療側が思う関心事と福祉側が思う問題それぞれでアプローチをしてしまうことになるので、ずれるんです。ご本人の困り事や関心事を把握している方がいるというのがまず一つ。
もう一つは、お医者さんと提携しようとするときの共通の目標、ベクトルは何なのかを確認できているかということです。何のために、私たちはこの方のためにこの時間を取っているのかという、意味合いをつけるのがすごく大事です。それがあるとご本人の困り事や関心事は共通の認識となり、一緒に頑張る知恵になる。それがない場合は、一番の関心事を取り上げても「そこは僕の扱う問題ありません」みたいな話になって、必要な連携が取れないということになります。

24時間365日対応による「あんしん」の提供と対応する側のライフワークバランスということや心構えを教えてください。

今の診療所にはお医者さんが6人いるので、単純に言うと6週間に1回しか土日は働かないのです。平日も1回待機をするかどうかです。月曜日から金曜日まで5人お医者さんがいたら、1回でいいじゃないですか。お一人で頑張っていらっしゃる先生のことは心から尊敬するんですけど、それはできないなと思う働き方をずっとしています。
そういう働き方なので、研究業を持っている先生もいれば、実家近くの医療機関で働いている先生、育休とる先生、時短にする先生もいます。いろんな働き方がこの5年間で実現しているので、地域医療をやりながら、在宅のいろんな急変にも応えるというのはうまく両立できるなと思っています。

このような体制を組むには、二つやり方があると思います。一つはリーダーが強烈なカリスマ性を持って医者をたくさん集めるということ。もう一つは、良質な教育を提供して研修医が集まるという仕組みをつくることです。前者は同じメンバーでずっと働き続けることになります。後者のやり方をここではしているのですが、今研修医は4人います。常に2人の指導医がいて、専攻医(※)とともに研修医を育てながら診療所を運営しています。みんないい指導医なのでいろいろ学べます。お医者さんのキャリアの中でも「都会がいい」とか、「実家の近くがいい」ということで決める方もいらっしゃいますけど、「いい教育が受けられる」ということで決める方もいらっしゃり、来年も3人の研修医が来てくれることになっています。

今のは体制の話です。心構えについては「森羅万象を愛でよ」ということだと思います。
例えば、すごく疲れている夜2時に、「便が出ない」という往診の電話があると、「えー」と咄嗟に思ってしまいがちけど、「いや、夜中に便が出ないこともある」と、お笑い芸人のペコパじゃないですけど、そう思うようにしています。人は、「なんで桜が散るんだ」とか、「なんで今日は1メートルも雪が降るんだ」とは怒らないでしょう?人間の生老病死は森羅万象なので、同じことです。みんなプリプリするんですよ「なぜ、僕の夜間対応のときだけ往診が3件も来るんですか!」とか。「いや、森羅万象だよ。愛でよ、愛でよ」という感じです。
※専攻医~初期研修を終え、専門医となるための専門プログラムを学ぶ3年目以降の医師。

プロフィール

松井善典(まついよしのり)

浅井東診療所 所長

滋賀県長浜市(旧浅井町)出身。2005年滋賀医科大学を卒業後、室蘭・日鋼記念病院での初期研修を経て、北海道家庭医療学センターにて家庭医療専門医コースを修了。その過程で、北海道各地での多様な家庭医療・地域医療のあり方を学びつつ学生・研修医指導にも従事。家庭医療専門医を取得した2009年から北海道家庭医療学センターのフェローシップコースに在籍し、家庭医として診療・教育・経営・研究の研鑽を積む。2012年にUターンし地元の診療所の院長となりグループ診療を開始、2014年10月から現職。
身近なかかりつけ医として幅広い世代へのよろず外来と訪問診療の日々と同時に、特養の嘱託医として施設看取りの経験と講演会なども県内で実施。また医学生への診療所実習や医学部での講義、そして関西家庭医療学センターのプログラム責任者として家庭医療・総合診療の専門医の養成も行なっている。

日本プライマリ・ケア連合学会認定家庭医療専門医・指導医
日本医師会認定産業医
日本プライマリ・ケア連合学会 、生涯教育委員会 委員、滋賀県支部副支部長
滋賀医科大学医学部 地域医療教育検討委員、非常勤講師

 

編集後記

糸賀先生の御著書『この子らを世の光に』の中に、「魂の故郷-白浜での体験-」(糸賀一雄『復刊この子らを世の光に』NHK出版、2003年、179~193頁。以下の引用箇所も同書、同節内)という節があります。昭和25、26年(1950、1951年)頃の糸賀先生は多忙を極め、また数々の問題を抱えます。これらの原因に自分の姿がみえないものはないとし「その苦しみ、悩みは、筆舌につくせないのであった」と記しています。いたたまれなくなった糸賀先生は、誰にも行く先を告げず、白浜に向かいます。白浜では現地の人に勧められて、岬の突端にある岩風呂に何度か訪れます。何日目かの朝、まだ暗いうちにこの岩風呂に入り、大きな音としぶきをあげて、繰り返し寄せてはひいていく波と、湯壺にさらさらと流れ入るお湯の音を聴いているうちに「私はふと、ずいぶん長い間、このままの姿であったと思いついた。(中略)私は全身がしびれきっていた」という感覚が訪れます。
「その瞬間、『なんでもない、なんでもなかったではないか』と思った。何がなんでもないというわけではないが、そう思った」と感じ、これをきっかけに吹っ切れる様がこの後に続きます。

松井先生の「森羅万象を愛でよ、愛でよ」の心構えを聞いたときに、糸賀先生の「白浜での体験」のエピソードが思い浮かびました。もちろん、この時の糸賀先生が抱えていた悩みと比べようはありませんが「自分が対応している時に限って、いつもこういうことが起きる」「あなたの時に限ってこういうことがよく起きるよねと先輩職員に言われる」ということは、障害福祉施設で働く人たちの多くも一度は感じたことがあるのではないでしょうか。
起こる事実に変わりはなくても、この世界に存在するもの、ことを「そういうこともあるよね」と捉えられるだけでも、必要以上に事実を重く受け止めたり、抱え込まずに済むのではないかと思いました。

(聞き手 田端・石田)