中田ケンコ(なかた・けんこ)さん
サンタナ学園

中田ケンコ(なかた・けんこ)さんは、サンタナ学園の校長です。中田さんは、ブラジル出身で、ブラジルで学校の先生をしていました。しかし、初めて日本に来た時に、在日ブラジル人の子供たちの置かれている境遇に衝撃を受け、その後、滋賀県愛荘町に在日ブラジル人の子供たちが通う学校を設立されました。中田さんに、教育で大切にしていることや、子供たちが置かれている現状、そして今後の夢についてお聞きしました。
(令和2年12月10日 サンタナ学園にて)

来日のきっかけ

私が14歳のとき、大阪の天王寺で働いていたお父さんがブラジルに帰ってきました。お父さん、おじいちゃん、おばあちゃんは大阪や日本の良いことばかり言っていたから、日本に行くのは私の夢でした。

その後、私はブラジルで学校の先生になり、17年間先生をしていました。その間に2年間の休みが取れます。その休みをつかって、1992年に初めて日本に来ました。

日本では、ゴルフ場でキャディーの仕事をしていました。その時に、滋賀県甲賀市のNECの社員の人と出会って、NECに私を呼んでくれました。そこで見に行ったら、びっくりしました。会社には、当時約200人のブラジル人が働いていて、みんな社宅に住んでいました。その社宅で一人のブラジル人のおばあちゃんが、3人の子供を見ていました。その子供はかわいそうでした。学校にも行かず、部屋でじっと座っていて、テレビばっかり見ていました。かわいそうだけれども、お父さんやお母さんは仕事のためブラジルから日本に働きに来たから、頑張らなければいけないし。その時、私は何もできませんでした。それから2年が経って、ブラジルに帰りました。でも、もう一回日本に戻って5年間働いてお金を集めました。そして、日本で家を買って、1998年5月に愛荘町でサンタナ学園を開校しました。 最初は自宅で、子供たちの保育園をしていました。でも、その子供たちが成長していくにつれて、小学生になるから小学校もつくらなければ、中学生になるから中学校もつくらなければといって、だんだんと増えていきました。最初は、自宅だけでしたが、建物もだんだんと増えていって今では1歳から高校生までが通う学校になりました。

サンタナ学園の外観

サンタナ学園はどんな学校?

サンタナ学園は、日本へ働きに来た主にブラジル人の子供たちが通う学校です。通っている子供たちは、1歳から高校生まで現在80人ほどいます。クラスは、建物ごとに保育クラス、小学生、中学生、高校生と分かれています。授業は、ブラジルの教科書に則って、全てポルトガル語で教えています。教えている先生はブラジル人で、ほとんどがサンタナ学園に通っている子供の親です。毎日、朝の5時から子供たちの送迎に出かけます。車でそれぞれの家まで迎えにいくので遠いところで片道2時間かかる子供もいます。また、子供たちには体に良いものを食べさせたいので食事は全て手作りです。子供たちと先生の分を合わせて毎日90食作っています。私は、23年間、毎日同じ時間に起きています。だから土日でも4時半に目が覚めます(笑)。

日本の学校へ行く在日ブラジル人の子供もいますが、サンタナ学園を選ぶのは、言語の問題でポルトガル語しか話せないことや、お父さんとお母さんが残業をしたいからです。サンタナ学園は、親が残業のため帰りが遅くなる時や、他の学校が休みの土曜日も子供たちを預かっています。日本の学校は土曜日や夜遅くまで子供を預かってはくれません。また、親に代わって小児科、歯医者など病院に連れて行きます。教育以外のサポートでサンタナ学園を選ばれる人もいます。リーマンショック前は、フィリピン、ペルー、ボリビアなどブラジル以外の国の子供たちもいました。ボリビアやペルーの出身でスペイン語を話せるとポルトガル語はなんとなくわかります。でも、ブラジル以外の他の国の子供たちは、ブラジルの学校の卒業資格を取ったところで、メリットはありません。みんな預かってくれる時間が長いというメリットでサンタナ学園を選ばれます。しかし、本当はサンタナ学園に入れたいけれども、金銭的な面で学費が安い日本の学校を選ぶ人もいます。サンタナ学園を卒業すると進学する生徒はほとんどいません。親と同じ日本の派遣会社に入って、工場で働いたり、ブラジルに帰って働きます。

サンタナ学園の高校生の教室

多くの支援で乗り越えてきたこと

リーマンショックが起こった時は大変でした。リーマンショック前は、子供たちが約120人いましたが、日本が支援をするから自分たちの国に帰ってくださいということになり、120人いた生徒が35人になり、月謝による収入が減りました。でも、リーマンショックの時は、みんなで力を合わせて、リサイクル業や、地域のお祭りでブラジル料理を売ったりといろんなことができました。少人数になっても、残っている子供たちがいたので、学校は続けてこられました。 

そして、今は新型コロナウイルスです。日本の政策で解雇をなるべくしないようにということで会社に給付金が支給されたので、リーマンショックの時のように大量に解雇はされませんでした。サンタナ学園も休業要請があった期間は2週間ほど休みました。でも、お父さん、お母さんは働いているので完全には休めてなくて、結局、一時預かりのような形でやっていました。家に親がいなくても一人で留守番ができる子供たちは、家で過ごしました。コロナ禍では、みんなで集まることもできませんし、地域のお祭りもありません。でも、新聞やテレビで取り上げてもらうことで近所の農家さんがお米や野菜を分けてくれたり、一斉休校になったことで余った学校給食の食材をフードバンクからいただきました。また、クラウドファンディングにも挑戦して達成することができました。

クラウドファンディングと支援金を活用して作られた室内手洗い場

ケンコ先生の夢

ブラジルの子供たちが日本の社会に出て困ることは日本語が話せないことです。日本語を教える先生を雇って、子供たちがバイリンガルになればいいなと思いますが、生徒の月謝だけでは日本語を教える先生を雇える余裕はありません。お父さん、お母さんが日本語を話せなくても、子供が日本語を話せたら病院やショッピングに行っても通訳や翻訳ができるし、アルバイトなど仕事の幅も広がります。サンタナ学園の子供たちは、家と学校しか居場所がないんですよ。家にしか居場所がないと引きこもり状態になってしまいます。ずっと家の中でコンピューターのゲームをしています。それは良くないから、学費を払えなくても来てくださいと言います。

家と学校で生活が完結しているので、特に言葉の問題で困るということはないんですね。でも、日本の社会には参加できていないし、接点がすごく薄いです。だから日本語の先生を雇って、日本語の勉強をもっと充実させ小さい頃から日本語教育をちゃんと授業の中にいれることができれば、この環境でも、子供たちなら、ある一定レベルまで話せるようになれるんです。日本語を教えてくれるボランティアの人たちがずっとサポートしてくれているんですけれども、週に一時間程度なので、あいさつなどはできますが、仕事で使う日本語まで覚えるのは難しいです。でも、その中でも頑張って話せるようになった子供たちも、もちろんいます。

私の夢は、サンタナ学園を各種学校(※)にすることです。サンタナ学園の収入は生徒の月謝に頼っています。親の収入は仕事の状況により不安定です。リーマンショックや、新型コロナウイルスのような出来事があれば月謝を払い続けることが難しくなる家庭もたくさんあります。ですが、各種学校になることで公的支援を受けることができれば安定した経営につながります。100%良くはならないけれども、少しでもマシになりますね。もし、私が病気になったり、リタイアすることになっても、残せる学校にしたいです。ここが存続して子供たちの居場所であり続けたいというのが私の望みです。

(※)授業時数・教員数や施設・設備などの一定の基準(各種学校規程等)を満たしている場合に、所轄庁である都道府県知事の認可を受けて設置される教育施設

サンタナ学園の子供たちと中田ケンコ先生
プロフィール

中田 ケンコ(なかた・けんこ)

     コレジオ・サンタナ(サンタナ学園)校長

ブラジルで教師をしている時に来日した際、日本に暮らすブラジル人労働者の子供たちが置かれた境遇に衝撃を受ける。1998年5月滋賀県愛知郡愛荘町にブラジル人学校コレジオ・サンタナ(サンタナ学園)を設立。子供たちの保育・教育だけではなく、ブラジル人の生活相談の窓口としての役割も担い、ブラジル人コミュニティーを支える公益的な活動や、多文化共生のための地域社会づくりも担っています。

 

NPO法人コレジオ・サンタナHP

NPO法人コレジオ・サンタナFacebook

 

編集後記

中田先生は、異国の地で生活する祖国の子供たちの現状を知り、日本でブラジルの子供たちの学校を作られました。言葉にすると簡単ですが、文化や言語が違う国で、これだけのことを実践するには、様々な苦労や苦難があったと思います。しかし、中田先生はインタビューでとても明るく笑顔でお話してくださりました。いつでも「大丈夫」と言って、サンタナ学園を頼ってくる人を拒みません。サンタナ学園には約80名の1歳から高校生の年代の子供たちがいて、その中にも自閉症など障害のある子供も通っているそうです。しかし、現在サンタナ学園では福祉専門のスタッフを雇うことができず、個別対応ができるスタッフ配置が難しいことから、多くは受け入れられず、全てのニーズに応えることは難しい現状があります。それでも中田先生には、たくさんの協力者や理解者がいてリーマンショックなど様々な困難を知恵と工夫で乗り越えてこられました。今後もさらに支援の輪が広がることを望みます。そして、糸賀一雄氏が遺した「自覚者は責任者」という言葉は、国を超えても共通しているのだと改めて感じました。

(聞き手 佐倉・石田)

中田ケンコ(なかた・けんこ)さん
サンタナ学園
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