(令和元年12月16日 びわ湖ワークスにて)
※写真(上)は用務先のびわ湖大津プリンスホテル
流通業からの転職
実家は愛知県で洋服屋さんをやっていました。静岡県にある20店舗ぐらい展開している洋服屋のチェーン店の社長とうちの親が知り合いだったので、大学卒業後、そこの店舗で何年か修業をして、ゆくゆくは実家を継ぐのだろうなという感じで働いていました。
そんな中、27歳の時に交通事故に遭って腰椎を骨折しました。約2か月間、寝たきりになりました。入院中に6人部屋のようなところで、斜め向かいのおじいさんが、何かよく分からないけれども、最後に「うわあ」と言って息を引き取ったのを見て、人は生きているのではなく、生かされているなと、人の生死について考えさせられました。そこから、自分にやれることは何かないかなと考え、それがきっかけで福祉に興味を持ちました。
また、洋服屋さんの仕事は基本的に立ち仕事で、朝10時から夜8時までずっと立っているのですよ。やはり続けていくのはちょっときついなということと、うちの親もくも膜下出血で倒れて、もう店を畳もうという話になって、僕もそこまで店に思い入れもなかったので、退院後は佛教大学の通信講座を受けて、社会福祉士の資格を取りました。
実家がある愛知県の社会福祉法人がたまたま求人募集をしていたので、30歳の頃に転職しました。そこの法人は宿所提供施設という、救護施設と同じ保護施設も運営していました。当時は全国に3カ所くらいしかない、数少ない施設で、そこでは精神障害や知的障害、身体障害の人がいっしょに生活されていて、かつ複数の事業をやっていて、そういう意味では面白かったです。僕が福祉の面白さを感じ始めたのはそこからです。
その頃、全国地域生活支援ネットワークがアメニティーフォーラム(※1)やその他全国で巡回フォーラムをしていました。当時は通所施設で働いていましたが、「地域福祉」という考え方に出会い刺激を受けました。滋賀県は福祉先進県のイメージがすごくあって、そういうところで自分に何ができるだろうかという気持ちが芽生え、37歳の時に滋賀県社会福祉事業団(※2)へ再び転職しました。
(※1)障害者の地域生活を推進していくための全国的なネットワークを作ることを目的に、毎年2月に滋賀県で行われる福祉フォーラム。
(※2)社会福祉法人グローの前身。2014年に社会福祉法人滋賀県社会福祉事業団と社会福祉法人オープンスペースれがーとがひとつになり、現在の社会福祉法人グローとなった。
アメニティーフォーラムの会場の様子
発達障害との出会い
洋服屋さんから愛知県の社会福祉法人に入職し、最初の配属先は身体障害者授産施設でした。車いすの人や筋ジストロフィーの人の支援をしていました。しかし、その後、知的障害者授産施設に異動になり初めて自閉症の人と出会いました。その時は、どのように対応したらいいか全く分かりませんでした。
当時は、アメリカのノースカロライナ州立大学で実践されていた「TEACCH」という自閉症の人の支援プログラムが日本でも広がり始めた時代でした。
勉強のためにそういう研修会へ行くと、写真カードや絵カードをスライドでいっぱい見せてくれて「こういうふうにやったら落ち着きます」と……。そうすると、僕らは写真や絵を見せたらいいのかと思います。だけど、ただ見せるだけではうまくいくわけがない。自閉症の人がただ絵カードを見せられたところで、何の意味か分からない。意味付けがあって初めてスケジュールを理解したり、コミュニケーションのツールになったりするわけだから、それが分からないまま、ああいう研修会で「こういう写真カードでやると、みんな、落ち着くんです」と言われても、うまくいきませんでした。
でも、何でできないのだろうか?どうやったらこのカードの意味付けを分かってもらえるのか?そういうことを考えて一生懸命やっていた時期でした。そこを諦めなかったから、今があるのかもしれないです。
その後、滋賀県社会福祉事業団へ転職し、配属された企画事業部では当時「地域生活体験モデル事業」(※3)をやっており、その後2005年から「体験型グループホーム事業」(※4)が始まりました。まだグループホームの体験利用は制度になっていなかったので、3ヶ月間だけ支給決定をしてもらって、グループホームでの生活を体験してもらうことを始めたのです。それから派生して、高機能自閉症のグループホーム「ホームかなざわ」(※2017年度末に事業終了)ができました。その頃から発達障害や自閉症の人たちと再び関わるようになりました。
そこでも、やはり支援は大変でした。いわゆる知的障害のある発達障害、自閉症の人たちも多かったけれども、知的障害のない発達障害の人たちは、またちょっと違い、一筋縄ではいきませんでした。構造化をして、環境を整えて「どうぞ」とやったら上手くいくという話では全然なくて……。どう向き合ったらいいのかというのを本当に悩みながらやっていたかなと思います。知的障害のない発達障害の方については、勉強ができたり、秀でた能力を持っていたりすると親や周囲の人は障害に気づきにくく、適切な理解やサポートが得られず、周囲からはわがままな子、情緒不安定な子といった捉え方をされていました。そして、だんだんと自己肯定感が低くなってきたり、強い不安感が生まれたりします。そういう生活歴がずっと重なってきて、成人期に抑うつや、強迫性障害などの何か違う名前の障害が二次障害として現れ、そこで初めて「発達障害」だと周囲が気づくケースも少なくありませんでした。だから、障害特性だけにアプローチしていても、うまくいかないことの方が多い気がするのですよ。仕組みだけの支援はうまくいかないので、個別対応になります。しかし、それが結局、人対人の自分しかできないような職人技になってしまっていて、それが良くないなと思いながらもどうしてもそこから抜け出せない感じでした。自分だけしかできないような支援をやっていても、自分がいなくなった瞬間にうまくいかなくなるだろうなと思います。「人」に依存するのではなくて「プログラム」に依存する。環境を整えるのは支援者がやるのだけれども、こういうプログラムを提供したら、本人はそのことを学んで生きやすくなるとか、そういう仕組みがあれば人に依存する支援にはならないかなと思いました。
そこで2012年に東近江市に「ジョブカレ」という高機能自閉症スペクトラム障害等の自閉症の人たちを対象にした就労支援と生活支援を一体的に行う事業所をつくりました。
(※3)自宅で暮らす障害のある方が、グループホームでの暮らしの体験や、自立生活にチャレンジする機会の提供を目的として実施された事業(2001年~2004年)
(※4)親から離れて暮らすことに踏み出しづらい方などを対象として、地域生活の体験を目的にグループホームで3か月間の体験入居や4泊5日の体験宿泊を提供する事業(2005年~2007年)
会社の事務所に見立てたジョブカレの一室
就労支援と生活支援の違い
発達障害の方の支援について、就労支援は生活支援に比べると案外やりやすいのではないかと僕は思います。それは、本人の能力などの要因はもちろんありますけれども、例えば会社に行って、配慮してもらいたいことが出てくるでしょう?それに配慮してもらったら、ある程度、うまくいくのですよ。本人にも「こういうことに配慮してもらいたいんです」ということを書いてもらって、本人の特性や配慮してほしいことを会社に伝えるとある程度はスムーズにいきます。ただ、会社の利益や生産性を上げるという意味では難しさはあるかもしれないですが、そういう環境を整えることについては、仕事をするという目的がはっきりしているので、本人にとって分かりやすいです。
しかし、生活スタイルは決まった形がなく、人それぞれ違います。ゴールが見えにくいです。結婚を例にすると、結婚はそれぞれ育ってきた環境が違う他人同士が一緒に生活するわけだから、生活スタイルについていろいろな対立が起きたりするでしょう?それと同じで支援者だというだけで、どこまで介入していいのかというのがさっぱり分からないなというのがありました。人の生き方は年齢を重ねるとある程度、固まっていくのですね。だから、人の生活スタンスは基本的に変わらないので、生き方を組み替えていくいくというのは、相当難しい。支援者によっては個人の生活スタイルや感覚で「部屋はきれいでないとダメ」、「洗濯は毎日しないとダメ」とかいろいろ言われるけれども、ある意味、僕はそういうことはあまり気にしないというか。部屋が汚くても、鍵など大事なものがどこにあるのかということだけちゃんと把握できていれば、生活ができるわけだし、いいと思います。大きくは変わらない中でもどこを変えたら、その人の生きづらさが少しでも軽減されるかというのを考えていくしかないのですよ。
全国の仲間たちに出会えて
2006年頃、行動援護従業者養成研修のカリキュラムを作るときに検討委員をさせてもらっていたのです。そこは全国で発達障害の支援をやっている人たちが集まって、いろいろ意見を交わしたり、検討していました。検討委員のメンバーと日頃の支援の話や悩み事を共有できたことで、僕の中では抱え込まずに発散できました。共通言語がちゃんとある中で話せていたのが本当にありがたくて、そのメンバーとは今でも仲良くしています。その時に出会った方々のお一人「特定非営利活動法人ライフサポートここはうす」(愛媛県今治市)の桑原綾子さんにはいまでも研修の講師として滋賀県に来ていただいていますし、「じょいなす」という発達障害の人の支援に特化した放課後等デイサービス事業所の再編成の時には毎月コンサルとして来てもらっていました。私が伝えるのと外部の人が来て伝えるのでは、ちょっと職員への響き方も違いました。彼女の方が子供の支援をずっとやってきていたので説得力がありました。
「じょいなす」の構造化された空間
支援で大切にしていること
「じょいなす」は立ち上げの頃、あらゆる障害の人を受け入れるというコンセプトで始まったので、室内は広いワンフロアで様々な障害の子供を受け入れていました。しかし、幅広く受け入れている反面、中には毎日のようにパニックになっている自閉症の利用者がいました。窓から飛びだそうとしたり……防犯用窓ロックとか付けているけど、そういう問題ではなくて、落ち着いて過ごしてもらうにはどうしたらいいか、というのを考えました。自閉症の人に合わせた環境を整えるしかないということです。だから、車いすの利用者さんもいるのですが、構造化をするということについて、一部の利用者の親御さんからの反対もありました。広い部屋で、みんなで仲良くワーッと楽しく過ごすことを求められていたので……。最初は職員からも反対がありましたが、実際に構造化し、視覚支援をすると、やっぱりみんな「あっ!こんなに変わるもんだ。」と思ってくれたのです。「安心して過ごせる環境」というのが、目に見えて分かるというのは、やっぱりすごいなと思って。子供たちの力が、こんなところにもあるんだとかいうのが分かるのですよね。床でゴロゴロして、毛布にくるまっていたような子供が、ちゃんと活動して、ワークみたいなのもちゃんとやれるところを見ると。
「じょいなす」はただ預かるということではなくて、一人一人が安心して落ち着ける場があり、社会に出たときに生きやすいように子供の頃からしっかりと支援をすることをコンセプトに再編成しました。子供の頃から、適切な支援や何か手だてがあったら、二次障害でここまで、困ったり、苦しむことにはならなかったのではないかという人たちとこれまで出会ってきましたので、少しでもそういう現状を減らしたいと思いました。きっと年齢を重ねて「じょいなす」を退所した後だってなんらかの形で困るんですよ。だけども、その困る人たちが困らなくても済むような手だてを、何となく自分で考えられたり、こういうことしたらうまくいくかな?みたいなことを自分で考えられたらいいなと思います。この辺はちょっと高機能発達障害の方になりますが、知的障害がある発達障害の子供たちでも、自分で選択する、交渉する、ということをちゃんとやれるというのがすごく大事だろうと思っています。一部ではありますが、支援者の中には、自分の言うことを聞かせるために利用者をコントロールしようとする人もいるでしょ。そうではなくて、お互いがある程度、妥協するというか。ここまでは許すから、あなたもここまでは許してよ、みたいな。障害があっても無くても人間関係はそういう中で成立している気がします。だけど、「支援者」と「利用者」という関係性になった瞬間に、そういうことではないよねと思う支援者は多いのではないかなと思います。「こうあるべきだ!」とか、「清く正しく生きなさい!」、「男女交際!?何言ってるんですか?」とか……。支援者が思い通りにコントロールしようとするのではなくて、「ここまではいいけど、ここから先は超えたらまずいよね」とか、そういうことだと思います。対人関係は交渉の連続で成立していると思います。それは障害があってもなくても同じで。だから支援者の対応次第で利用者の生きづらさは変わるのだろうなと思っています。
「じょいなす」で使用されている「心のひなん」と書かれたカード(辛い気持ちの時に提示するカード)
松田 裕次郎(まつだ・ゆうじろう)
社会福祉法人グロー 東近江障害施設群 管理者(兼)所長(兼)室長
交通事故がきっかけで社会福祉法人愛恵協会に入職。その後、滋賀県社会福祉事業団に転職。平成17年より、発達障害者の生活支援事業を担当し、平成26年には、発達障害者の日中と生活の支援を一体的におこなうジョブカレの事業を担当。現在に至る。
※社会福祉士・臨床発達心理士
編集後記
松田さんのお話を伺って支援とは人と人との関係で成り立っていると改めて思いました。
人から頼られるとついつい嬉しく感じ、相手の要望に応えようとしてしまいがちですが、相手から依存されすぎる関係になると、その要望に応えられなくなった時に返って相手を傷つけてしまうこともあります。インタビューでも二次障害を抱える人たちにまつわる支援や失敗の経験など伺いました。これらのことをご経験されてきて、支援者として自分がいなくなった時のことも考え、「人に依存する支援」ではなくて、「システムに依存する支援」が重要だとおっしゃっていました。障害があるなしに関わらず、人と人との関係では権利と権利の衝突が生まれます。福祉は人に携わる仕事であり、支援者にはスキルが求められます。インタビューを通じて改めて福祉の仕事の難しさと人と人の関係について考えさせられました。
(聞き手 佐倉・石田)