久郷慶子(くごう・けいこ)さん
NPO法人 しが盲ろう者友の会

NPO法人しが盲ろう者友の会の理事の久郷慶子(くごう・けいこ)さんは、盲ろうの方々やそのご家族の生活相談や啓発活動をされています。「盲ろう」とは世界的に有名なヘレン・ケラーのように視覚と聴覚の両方に障害を併せ持ち、「光」と「音」が失われた状態です。独力で移動、コミュニケーション、情報入手をすることなど極めて困難な状態に置かれています。久郷さんに通訳者としての思いや盲ろうの方の現状や課題などを伺ってきました。
(令和元年5月27日 NPO法人しが盲ろう者友の会事務局にて)

「しが盲ろう者友の会」に関わったきっかけは?

私は以前、滋賀県の専任手話通訳者をしていました。そこで先天性の聴覚障害の女性の方と出会いました。
その女性から「私は遺伝性の網膜の病気でだんだんと目が見えなくなってきます。私の2人の姉はすでに見えなくなり、次は私の順番が来る。目が見えなくなるから、白杖が欲しい。日本全国にもそういう仲間がいるはずだから、点字を覚えてコミュニケーションを図っていきたい」と強い希望がありました。その女性は視野狭窄で、その当時は見えており、3センチぐらいの大きな文字を黒マジックで書いて、ファクスを出すということはできていました。しかし、まだ「盲ろう」が言葉として社会的にありませんでしたので、そのような状況の中で本人さんが何度、役場に行かれても「まだマジックでここまで書けるなら、そんなに対策は要らないだろう」という対応でした。盲ろうについてなかなか分かってもらえなかったというのが現実でした。
その当時、聴覚障害、視覚障害の福祉制度はありましたが、聴覚と視覚の重複障害の「盲ろう」という障害についてはあまり知られることがなく、制度の谷間に置かれていました。当事者や支援者が運動をしないと、福祉に繋がっていかなかったという時代でした。1990年ぐらいに東京と大阪の盲ろうの大学生が当時学生だった福島智さんを中心に運動を始め「全国盲ろう者協会」が設立されました。それを知った聴覚障害の彼女は滋賀県で初めて全国盲ろう者協会に入会しました。そこで「触手話(※1)」というコミュニケーションがあることを知り、滋賀県で盲ろう者友の会の拠点をつくろうという流れになり、2001年に5人ほどの盲ろう者と行政や手話サークルのメンバーなど多くの皆さんに助けていただいて、しが盲ろう者友の会を設立しました。
「ああ、これが触手話。手に持って手話をすれば、通じ合うんだ。家族でも通じ合うんだ。仲間でも通じ合うんだ」と初めて新しいコミュニケーションとの出会いがありました。
触手話との出会いがしが盲ろう者友の会を設立してから一番大きな意味のあることでした。

(※1)触手話とは手話を触って読み取る方法のこと


しが盲ろう者友の会事務局(外観)

しが盲ろう者友の会の生活訓練事業とは?

しが盲ろう者友の会を設立しましたが、盲ろうの人が集まって、ここから社会参加しましょうと言ったところでどこへ行っていいのか分かりませんでした。そこで行政の方から「生活訓練事業(※2)なら、県の事業費として制度があるので、その制度を使われたらいいよ」とアドバイスを頂いて生活訓練事業から始めました。
通訳・介助者の派遣事業も大事です。盲ろうの方は一人で外出はできませんので、外出時の移動介助をしてもらいながら現場へ行く。現場へ行くと通訳介助も必要です。しかし、「自分がどういう社会参加をしたいのか。自分は何がしたいのか。自分の生活をどうしたいのか」という考えを盲ろう者自身が持つことが大事です。盲ろうの方々が生活訓練という場に集まって、様々な情報交換をしながら、自分のこととして考えられることを目的としました。
就労についても、まだまだ働きたいけれど、だんだん目が見えなくなってくると、会社の中で物にぶつかるようになり、自力で通勤できなくなり皆さんやむなく退職されます。そういう自分の人生の辛い思いがあるので、退職後、どこか外に出掛けて自分で何か学びましょう、趣味をしましょう、と勧めたところでそんなに簡単に前向きに人生を変えられません。まずはそういう辛い思いを共有し合っていかないと、なかなか自分のこととして考えられない、次のことが考えられません。しかし、ただ生活訓練の場で、自分の人生論をおしゃべりして、お互いに聞くだけだと「少し見えるからいいよね」、「自分はまったく見えないからいいや」等と、なかなか自分の人生として向き合うことができません。だから、家庭ではできない、自分一人では出来ないことを仲間と一緒にやったらできる、という体験を重ねて次のステップに繋げることが大切です。
体験を積み重ね、継続するためには身近な楽しみを見つけることです。見えなくなり、聞こえなくなり、人との繋がりが少なくなる中で、食べることが楽しみになります。活動をして次に繋がる達成感を味わうためには食べることがないと「次も出かけよう」という気持ちにはなりません。少しでもいいから、達成感を感じて「ここに来れば、これができるんだ」、「みんなと一緒にしたら、こんなことを感じられる」、「でも、これは失敗した」と、成功や失敗したことなどがいろいろ味わえて、体験できるということから生活訓練の調理活動を重ねてきました。最初はまな板や包丁一つでも慎重に選ばれていました。タマネギの切り方もどうすれば危なくないように切れるだろうかなど、いろいろ工夫を重ねてきました。それが、今ではスムーズに自分の役割を果たし、仕事がないときは休憩をしながら、介助者と世間話をする余裕も出てきました。
生活訓練は自分たちが生きていくために社会参加をする一つの窓口であり、大きな入り口だと思います。情報がなければ、自分たちも情報を発信できない。現在、しが盲ろう者友の会が運営する生活訓練事業所は近江八幡市安土町の「たっち」、甲賀市水口町の「ふれんど」、長浜市の「クレパス」、高島市の「オラフ」の4か所があります。しが盲ろう者友の会の事業で一番大事な事業だと思っています。

(※2)盲ろう者社会参加促進事業


生活訓練「たっち」での調理活動の様子

通訳だけではない通訳介助者の役割とは?

私は「自分の思いを自分の言葉で相手に伝える」ことが一番、人間の幸せだと思います。それができないのは本当に悔しいと思います。
私たちはコミュニケーションの媒介役というか、中間の役割をせざるを得ないから、通訳者の役割で伝えていますが、通訳者なんてなくてもいい、自分で話せて、自分で答えを聞ける。そういう暮らしがあったらいいなと思います。しかし、それができないから、通訳介助者の役割があります。
盲ろうの方の通院付き添いのときは「お医者さんとしゃべりなさいよ。通訳介助者がしゃべったのとは違いますよ。私たちはお医者さんの話を伝える。だから、通訳介助者に伝えるのではなくて、お医者さんとお話をして自分がしんどいときや痛いところは伝えないといけないよね」と言いますが、通訳者の方を向いてしゃべることが習慣になっています。また、お医者さんも盲ろうの方に伝えるのではなく、つい通訳介助者にされるのです。病院で診てもらうのは本人ですが、陰の存在で薄いと感じます。
どんな場面でも、自分の言葉として話せることが、人間にとってどれだけ幸せなことだろうかと思います。しかし、盲ろうの方はそれができない。人を通してしか自分の気持ちを伝えられません。嬉しいとき、悲しいとき、みんなと気持ちを共有し、自分の気持ちを相手に伝えられたら、どれだけ人として生きる喜びにつながるかと思います。それが普通のことですが、その普通のことができないもどかしさが、盲ろうの人たちと出会って、一番辛いことだと思いました。
それと、もう一つは、長い間、在宅におられると、コミュニケーションの仕方を忘れてしまいます。ある方は自分の名前を出せるまで、支援をしながら2年ほどかかりました。そのときは支援者みんなで涙を流して、喜び合った覚えがあります。人と出会わないとしゃべらない、自分の名前すらも出さなくなる、諦めてしまうのです。
また、別の盲ろうの方はしが盲ろう者友の会に誘い始めて、3年が経過してやっと反応がありました。車の中から窓の景色を見て「今日は寒いよ」、「今日は暑いよ」と言って、手のひらに書き、自分が何か感じたときは、手をぐっと握り返してくれるようになりました。自分の思いを伝えることは障害があってもなくても、人間の当たり前の権利なのに、それを奪われるというのは非常に悲しいことだと思います。だから、少しでも自分の気持ちを相手に伝えられたら、どれだけ嬉しいことかと思います。在宅で長い間過ごされた方で全く反応がなくても、誰でも同じように向き合うことが、しが盲ろう者友の会で一生懸命に取り組んでいることです。
私は小さな喜びでも、「ああ、生きていて良かった」と感じてもらえるような、暮らしができればと思います。本当にささやかな喜びをみんなで共有して、喜び合って、それをまた次の支援につなげていくことも介助者の役割の一つになっていると思います。


触手話をする久郷さん。相手と向き合い、相手の手をとり手話を読み取ってもらう

久郷さんが思う生きる喜びとは?

長浜市の生活訓練「クレパス」は月に1回活動をしています。そこに在籍する若い女性の盲ろうの方は、明かりがあると人の形などぼんやりとした感じで見えます。その彼女は「最初から耳が聞こえないのは大丈夫。でも、目が見えなくなるのはとても怖い。だから、目が見えなくなるまでに、いろいろな人と出会って、いろいろなことを知りたい。いろいろなところへ行ってみたい」という切なる願いがあります。それを少しでも叶えられるよう、クレパスでは自己実現を目指して、みんなで計画しながらやっています。本人たちの希望は私たち支援者の糧になります。私たちはこうして見えていて、こんなふうにお話ができて、聞こえますが、彼女は将来的に自分の身体的な不安を持ちながらの暮らしで、どうしても拭い去ることはできません。その不安はどうしても支援してあげられません。やはり自分で乗り越えていかないといけません。でも、周りの人が環境を整えれば、その人の不安を少しでも楽にさせるのではないかと思います。一時的にもそうなれば、見えなくなる、聞こえなくなる時期が来ても、乗り越えられる自分になってもらえるのではないかと思います。そのためには何ができるだろうかと考えることも生活訓練の役割です。
皆さんに「何がしたい?」と聞くと、「みんなと一緒に京都へモミジを見に行きたい」、「自分たちで電車に乗って初詣をしたい」という希望があります。
モミジは実際に見えません。でも、モミジを手に触って、「この色が……この大きさが……」とモミジの違いなどを、実際の人混みの中で触れることで、自分もここにいるのだということを感じてもらいます。空いている場所ではなくて、敢えて、多くの人が美しい紅葉を見に来ている場所で「これが今、人気の観光スポットだよ」ということもお伝えしています。
自分で足を運んで、自分で触って体験しなければ、それは生きる喜びにはなりません。小さな喜びを大事にして今を頑張っています。


しが盲ろう者友の会事務局(玄関)これまで出掛けた場所の写真が飾られています。

盲ろう者との繋がりを広げていくことについて

現在、しが盲ろう者友の会には20名の盲ろうの方が登録されています。あと130名前後の方が滋賀県内のどこかの市町で生活されていると推測されますが、把握できていません。
平成15年に実態調査をしたときは24名の盲ろうの方がいらっしゃいました。アンケート調査ではなくて、家族構成や実生活の中身など生活全般の実態調査でした。これは全国で初めての調査になりました。家族と一緒に暮らしておられる方や、ご夫婦、父子家庭など、様々な家庭環境があり、その人に応じた介助の仕方があります。
耳が聞こえないことは受容できる。でも、見えなくなることはなかなか受容できない。ですが、見えにくくなり、一人で外出することに困って介助者の派遣を依頼されます。通訳介助者を派遣して、目的地に行くだけでは意味がありません。障害を受容したくないなど様々な個人の事情があります。生活背景の情報はある程度、知った上でどういう形で支援した方がいいのか支援者でいろいろと工夫しながら、介助しています。例えば野球が好きな方であれば、野球の情報を伝えます。「昨日は巨人が勝ったよ」と言うと、自分は何も見えない、分からないけれども、「そうか。巨人が勝ったのか」と喜んでくれます。そういう情報交換をするのも、介助者と出会う喜びがあります。また在宅から外に出ることは、盲ろう者にとって大きなことですので、お一人ずつその方を理解する必要があります。
昨年はしが盲ろう者友の会のパンフレットを持って滋賀県19の市町全てを訪問しました。
直接、市町の課長さんや担当の方に、しが盲ろう者友の会の事務局と盲ろうの方も一緒になって盲ろう者の生活の実態を伝えたり、どこにも繋がっておらず在宅で生活されている方がいらっしゃったら情報をいただきたいと30分から1時間近くお話をしました。しかし、在宅で生活されている方の実態数が想定しているよりも少なかったので、今年は市町の方にもう一歩踏み込んで聞かせていただき、一人でも多くの方との繋がりが欲しいです。

※平成28年にはNPO法人盲ろう者友の会の岡田理事長にもインタビューしています。併せてご覧下さい。 → こちらです

プロフィール

久郷 慶子(くごう・けいこ)

NPO法人 しが盲ろう者友の会 事務局(盲ろう者相談員)

1990年(平成2年4月)から滋賀県の専任手話通訳者(非常勤)として2012年(平成24年3月)まで勤務。聴覚障害の人たちの手話通訳や生活に関わる訪問通訳をとおして、一人の盲ろう者の女性との出会い2000年(平成13年7月)滋賀県の盲ろう者5人と支援者16人の仲間と「しが盲ろう者友の会」を設立する。退職後、現在のNPO法人しが盲ろう者友の会の事務局に入り、主に盲ろう者やその家族などの生活相談に関連して関係機関と連携を持ち盲ろう者の啓発活動している。

NPO法人しが盲ろう者友の会ホームページ
NPO法人しが盲ろう者友の会Facebook

編集後記

今回のインタビューで印象に残ったことの一つは、久郷さんが手話を習い始めたのが40代の頃だと伺ったことです。当時、久郷さんに関わる支援者の方々の姿をご覧になり、社会や誰かに対して自分も何かできることはないかと考え、手話を習い始められました。その後、手話を習得され、滋賀県の専任通訳者として聴覚障害の方々の支援をされていました。しかし、一人の女性との出会いで、盲ろう者への支援が不十分だと感じ「NPO法人しが盲ろう者友の会」の立ち上げに関わったとのことです。立ち上げ当時は専任通訳者の仕事以外の夜の時間に盲ろう者の支援をされていたそうです。まさに糸賀一雄氏の「自覚者は責任者」という言葉に共通していると思いました。
しが盲ろう者友の会の生活訓練「たっち」の活動も拝見させていだきました。そこは盲ろうの方々が集い、支援者を通じて情報を得たり、結びつきや喜びを分かち合う体験の「場」で、盲ろう者にとって「場」を持つことはとても大きな力になるとのことです。そして、そこでは誰もが「役割」を持っています。盲ろうの方は調理の場面で主体的に野菜を切ったり、後片付けをする役割がありました。私たちもお客として皆様からおもてなしを受け、お味噌汁までごちそうになりました。具材の野菜は手の感覚だけで切ったとは思えないほど、小さく一口大に切り分けられていました。また、支援の対象と思われがちな聴覚障害の方は、手話を使えるという強みを活かして、ここでは盲ろうの方のお手伝いや介助の役割を担っておられました。共に集う安心できる「場」と誰もが「役割」を持つことが社会との繋がりであり、その意味において、誰一人として取り残さないための実践をしが盲ろう者友の会の皆様は積み重ねています。少しでも多くの方々にしが盲ろう者友の会の取り組み、盲ろう者の現状を知っていただくことで、まだ誰とも繋がっていない盲ろうの方々に新たな支援の輪が広がればと思います。

(聞き手 佐倉・石田)