近江八幡市、安土駅から徒歩5分ほどの民家でフリースクール「Since」を運営する麻生知宏さん。すべての子どもたちに「居場所」と「機会」を提供することで、子どもの存在そのものが受容される環境を作ることを目指しています。自身が経験した不登校が「活動の原点」と語る麻生さんに、Sinceを立ち上げるに至った思いや、立ち上げから5年間で積み上げてきたものなどを聞きました。(2025年4月22日 フリースクールSinceにて)
「人生終わった」と感じた不登校が、原体験になった
>ご出身は?
奈良市の高の原です。奈良市の北にある古いニュータウンで、1998年に生まれました。姉がいて、父は企業勤め、母は専業主婦という家庭でした。
>どんな子ども時代でしたか?
小学校のときは運動が好きで、野球部に入っていました。今でも運動は好きなんですが、子どものころはスポーツが好きすぎて、結果主義、能力主義に陥っていたと思います。野球でヒーローになれば何をしてもいいとか、逆に打てなかったら「もうだめだ……」みたいな感覚が強くありました。チームメイトのヒットを素直に喜べない自分がいたり、周囲ともギスギスしてしまって、自分のあり方みたいなものが、すごく特殊というか、変わっているなと感じていました。
>中学時代に不登校を経験されたと聞きました。
中学2年の夏から学校に通えなくなって、ある意味で「人生終わった」と感じました。身体的不調というより、ただ学校に行きたくなかった。親は、何も言わずによく受け入れてくれたと思います。
>学校に通わず、ずっと家にいたのでしょうか?
1年ぐらいは引きこもっていました。家にいるときはゲームばかりしているのですが、昼夜逆転してしまうんです。昼の3時ぐらいに起きて、家中の雨戸を閉める。登下校する子たちの声を聞くのが本当にしんどいんです。押し入れに入ってイヤフォンして、ゲームしたり、映画を見たりしていました。
>外に出られるようになったのはいつごろでしょうか?
中学3年の秋には外に出ていたと思います。友だちというか、お世話になっている子が2人いて、ずっと届け物などを持って家に通ってきてくれたんです。でも、どんな顔をして会ったらいいかわからない。元気だと思われたら気まずいじゃないですか。でも、会いに来てくれることは、自分にとって、とても大きな意味を持っていました。自分のことを必要としてくれている友人がいるという感覚ですね。そうすると、同じ夢を何度も見るようになったんです。その子たちと昔みたいに、楽しくおしゃべりしている夢。いきなり会うことは難しいけど、ひとまず友だちがほしいと思いました。それでも学校には行けないから、公的な教育支援センターに行きました。(当時は適応指導教室)
>支援センターのような場所があることは、自身で調べたのですか?
親が適切なタイミングで情報をパスしてくれました。僕のことをよく見てくれていて、プロフェッショナルな対応があったと思います。教育支援センターに行く前から、少しずつ外に出るようにはなっていて、近くの山を登ったりしていたんです。家から出て外に刺激を求めたいという気持ちを両親は心地よく認めてくれて、「行ってきや」とお小遣いを渡してくれました。「お小遣いはなし」といわれて当然だと思っていたのですが、ちょっと救われた気がしました。これらの不登校が、僕にとっての原体験になっています。

不登校問題の本質に向き合うために、フリースクールを立ち上げる
>教育支援センターでのエピソードはありますか?
教育支援センターで同じ悩みを持つ友だちができて、家に来てくれていた2人ともようやく会うことができました。「ここにしか友だちがいない」と思うと失うのが怖くて会えないのですが、複数の居場所ができると、「万が一、喧嘩してもほかにも友人がいるから大丈夫」と考えることができる。2つの居場所が両輪となって前に進んでいるように感じました。居場所の複数性が大切だといえる象徴的なエピソードだと思います。
>高校進学はどのように決めたのでしょうか?
まったく勉強はしていなかったけど、高校生活へのあこがれはあったんです。県立高校に行くと中学時代の知っている人に会ってしまうし、私立の単位制の高校に進みたいと考えました。ただ、学費的な問題がありましたね。両親は県立高校に入ってほしいと考えていたのですが、そこは学校の先生が「知宏君の意思を尊重したほうが絶対にいい」と言って後押ししてくれました。
>高校生活はどうでしたか?
単位制といっても基本的に通って授業を受ける学校でした。1年目は楽しく過ごしたけど、だんだん「自分はこのままでいいのかな?」と思うようになりました。友だちと遊ぶ日々も楽しかったのですが、漠然とした自分へのモヤモヤを抱えていました。 そんなとき、恩師ともいえる先生と出会います。僕たちのやりたいことをとことん応援してくれる先生でした。その先生の存在にも支えられ、勉強に打ち込もうと決意しました。「自分自身が、自分に胸を張れるような人間になりたい。まずは、勉強をしよう!」と考えたわけです。 朝の7時には学校につき、夜9時まで勉強する。とても濃密な時間でした。僕が勉強するために、高校を解放してくれていた先生には、今も感謝しています。
>そして、滋賀大学教育学部に合格されたわけですね。
大学では教育を志しました。不登校は僕にとってアイデンティティになっていたし、「不登校になると社会に出られない」というようなネットの書き込みを見て、「そんなことはない!」と感じていました。就職を考えたとき、理学療法士の現場を見学したり、看護とか、山が好きだったので環境系とか、いろいろ候補はあったのですが、自分にしかできないことは何だろうと考えた結果が教育でした。
>ナンバーワンを目指していたのが、オンリーワンに変化していった感じですね。
「不登校問題の本質は何なんだ?」という思いはずっと持っていて、知りたい、探りたいと思っていました。僕がフリースクールを目指そうと考えた理由は2つあって、1つは学校の先生になると没個性化してしまうような気がしたから。 大学時代って、個性が爆発している気がするんです。みんな、各々が自分の好きなことを突き詰めているというか。けど、そういった先輩が先生になると、学校での話よりも、趣味やお休みの日の過ごし方とか、みんなどこか似たような話しかしなくなる感じがしていました。だんだん「先生像」に収縮していく感じというか。だからこそ、僕は「先生になる」というより、「Since」という個性を拡散させていきたいと思ったんです。そして、何よりも仲間がいたことですね。「フリースクールおもしろいと思うんだけど……」と僕が話したとき、「一緒にやろう」と言ってくれた仲間がいたこと。今でも一緒に活動している生鷹幹太(おいたか・かんた)、門脇真斗(かどわき・まさと)の2人が、「一緒にやろう。3人だったらやれるよ」と言ってくれたことが背中を押しました。2人がいなかったらSinceは絶対に始まっていません。みんな就職活動もしていて内定ももらっていたのですが、泥舟かもしれない舟に乗ろうって言ってくれたのは、本当に愛だと思います。
フリースクール「第2世代」、フラットに選択肢を提供したい
>Sinceの立ち上げが2020年ということで、5年ほどが経ちますが、これまでの活動を教えてください。
近江八幡を中心に活動しているのですが、立ち上げ当初は場所もなくて、近江八幡市総合福祉センターひまわり館を借りて活動していました。
>子どもたちとはひまわり館で出会ったのですか?
いろいろな場所に行って勉強を教えたりしていたので、そこで出会った子たちに声をかけたり、たまたまつながった子がいたりして、広がっていった感じです。
>親とつながる前に、子どもとつながったんですね。近江八幡を活動拠点に選んだ理由は何ですか?
本当にたまたまですね。近江八幡で活動している親の会で「一般社団法人蜜柑の木」という団体があるんです。「ちょっと子どもたち預かってみたら」みたいな感じで始まって。最初は山科でフリースクールをやろうかと思っていたのですが、人が集まる交差点みたいな場所がいいなと思っていたので、草津なども検討しました。
>現在では安土(近江八幡市)で民家を借りて活動されています。
お金もないし、しんどかったことはたくさんあったけど、どの瞬間を切り取っても本当にいい思い出だなと思います。僕は「可能性」が好きなんです。立ち上げ期に考えていたイメージより、何十倍も面白い活動ができています。ひとえに、たくさんの方々が協力してくれているからだと思います。

>現在のSinceは、「フリースクール」「ステップブラザー(訪問型支援)」「放課後LABO Since」「ナイトステイ(夜間の居場所)」と4つの柱で活動されています。最初からこの形ができあがっていたわけではないですよね?
最初のころは、ただ子どもたちが集まってきて、ゲームして過ごしているような感じでした。最初から「勉強しよう」ではだめだし、長い時間をかけて信頼関係を築く必要があったと思います。不登校の根本的な問題として、子どもたちが「何かしたい」と思って、そのサインを外に向けて出したときに、応答できるような環境が必要です。子どもたちは、いろんな可能性を持っています。実は、勉強したいと思っている子どももいます。いろんなことを知りたいとか、新しいことに挑戦したいとか。自己実現したいという思いは本来誰もが持ち備えていると確信しています。
>フリースクールでは、「学習」と「体験」を2つの柱として、午前中に「スタディサポート」の時間を設けるなど、しっかりとしたプログラムの中で活動されている印象です。
「学習」は勉強、「体験」はコミュニケーションの場づくりといった感じですが、根本は同じで、自分がやりたいことをかなえていく力を身につけていく活動です。どちらかに偏るのではなく、フラットに選択肢を提供することが大切で、子どもたち自身が自分のやりたいことを理解して、好きなほうを選んでくれたらと思います。居場所的側面も、学びの場としての要素も併せ持つ。このあたりのアプローチは、フリースクールのなかでもちょっと特殊です。
>フリースクールといっても、それぞれで考え方が違うわけですね。
僕たちの活動は、フリースクール界隈では「第2世代」と呼ばれています。第1世代は、不登校の子を持つ親が主体となって活動されていて、「勉強しなさい」ということを子どもに絶対に言ってはいけないという思いが強くあります。でも、僕たちはちょっと違っていて、どうしてもいやだったら勉強しなくてもいいけど、それぞれ勉強したいと思っていることもあると思うし、学ぶ機会も提供したい。Sinceでは英語の先生が来て子どもと英語をしゃべっていることもあるし、安土城に行って関心のあることに興味を向けている子もいます。


子どもたちの自己実現のために、何が適しているかを問い続ける
>保護者の方は、Sinceの活動をどう見ているのでしょうか?
ほんま、頼りないと思ってるんじゃないかな(苦笑)。Sinceに通えている家庭は、フリースクールに理解があるし、ある意味大丈夫なんです。でも、金銭的な課題を抱える家庭や自宅から出てこられない子どもたちのことは心配ですね。
>そういった家庭や子どもたちへのアプローチも考えているのですか?
滋賀県内に約1,800人、教育にアプローチできていない子どもたちがいるといわれています。Sinceではステップブラザーという訪問型支援を行っていて、1つのキーワードになるのではないかと思います。また、ナイトステイで無料で夜ご飯を提供する機会を作って、そこから居場所を見つけてもらえたらとも思っています。ゆくゆくは、学校の教育現場でしんどくなった先生が、訪問型支援の現場に行けるようになったらいいなと考えています。
>学校の先生ですか。
はい、先生です。しかも、しんどくなった先生がいいなと思っています。今は教員がどんどん辞めてしまいます。ポイントは学校だけが教育の場じゃないということです。学校という場ではあわなかった子どもたちが、学校の外で先生と出会うことで、お互いに教育ってなんだろうって問い直す機会になると思うんです。ちょっと壮大な話で、実現するまでにはまだまだ時間がかかるとは思っています。
>現状として、学校との連携はどのように行っていますか?
毎月、子どもたちの生活面、学習面をA4のレポートにまとめて提出しています。オンラインアプリを使っていて、日々の振り返りを子どもたち自身が記録しているのですが、それは学校にも共有されているし、フリースクールでどのような取り組みをしているかも見てもらえる状態にしています。
>子どもたちと学校をつなぐという意味で、スクールソーシャルワーカー、カウンセラーの役割も大切ですね。
その通りですね。フリースクールを超えて、さまざまな分野の人たちと関係性を築くことも大切だと思います。フリースクールのなかでも主義主張は違うし、一枚岩とはいきません。でも、子どもたちの自己実現のためになにが適しているのかを問わないと、意味がないと思います。学校に通うか、フリースクールに通うかはあくまで手段でしかありません。自分が毎日やっていることに価値づけできる人は幸せなんです。これは、学校に限らず、事故でけがをしたりしても同じですが、「あのことは意味があった」と思えたら、次に困難がやってきても乗り越えられます。そう考えられるような姿勢を育むことこそ、僕は教育だと考えています。僕は、生きていてくれたらすべて可能性に変えることができるし、全部大丈夫だと思っています。
>子どもたちにとっても、保護者にとっても大切なメッセージですね。
僕は梅の花が好きなんです。梅は冬の寒さをしのげばしのぐほどきれいな花を咲かせます。咲いている梅だけではなくて、寒さに堪え忍んでいる梅も、僕たちはめでる必要があると思っています。今は咲いていなくても、咲こうとしているんだから大丈夫。僕たちは自分たちの可能性を信じているし、子どもたちの可能性を信じています。


麻生 知宏(あそう・ともひろ)
1998年生まれ、奈良県出身、滋賀県在住。特定非営利活動法人Since理事長。滋賀大学教育学部・学校臨床専攻卒業。2020年9月、大学時代の友人である生鷹幹太さん、門脇真斗さんとフリースクールSinceを設立。2022年4月、NPO取得。現在、岩木尚孝さんがスタッフに加わり、近江八幡市安土を拠点として活動している。
編集後記
「学校は通って当然」「勉強は頑張らなくちゃいけない」。そんな価値観が当たり前とされ、いい大学、いい会社に入った人たちで戦後の日本という社会が構成されてきました。そこからはずれてしまえば、ドロップアウト。中学生の麻生さんが「人生終わった」と感じたように、今でも社会が多様な価値観を示せているか疑問です。
戦後、近江学園の障害児とともに生活した糸賀一雄先生は、子どもたちが社会から疎外されていることに問題を感じ「社会のさまざまな矛盾のただなかにあって、人間の新しい価値観の創造をめざすといった歴史的な戦いの一環であった」と振り返っています※。また、「おそらくは永遠の戦いでもあろうか」という言葉も残しています。「可能性を信じる」という麻生さんの言葉は、新しい価値観の創造を目指す実践を支えているはずです。(聞き手:赤澤・山邊)
※「福祉の思想」糸賀一雄著・NHKブックス はじめに(P10)より引用