【NEW】NPO法人喜里 
理事長 藤井美智代さん

難病応援センター喜里の看板の前に立つ藤井美智代さん

難病応援センター喜里、ワークスペース喜福を運営しているNPO法人喜里 理事長の藤井美智代さん。ご自身も難病患者の当事者であり、これまでにたくさんの難病の方の支援に取りくまれてきました。今回は藤井さんのご経歴、そしてNPO法人喜里を立ち上げたきっかけなどをたっぷりお聞きしてきました。(2024年10月12日 難病マルシェ@NPO法人喜里にて)

ワークスペース喜福 入り口
(ワークスペース喜福 入り口)

病気や障害があっても、楽しんで自分が思ったこと、好きなことをやればいい

>藤井さんの経歴を教えてください。

 NPO法人喜里を立ち上げるまでは滋賀県難病連絡協議会(患者会団体)の理事長と滋賀県難病相談支援センターのセンター長を3年ぐらいしていました。栗東市にしがなんれん作業所という作業所があるのですが、そこの立ち上げメンバーとしても活動していました。

 

>藤井さんも難病の当事者だとお聞きしました。

 25歳で難病を発症。それまで美容関係の仕事をしていました。結婚してから1か月ぐらいしたときに、突然左耳が痛くなって次の日に倒れて起き上がれなくなりました。最初は脳梗塞かもと言われましたが、検査をしていくうちに「多発性硬化症」ということがわかりました。

 

>病気が分かった時の心情は複雑ですよね。

 夫や家族は医師から「多発性硬化症」と聞いてはいましたが、私には直ぐに伝えませんでした。入院中自宅に外泊で戻った日に部屋の掃除をしたときに、こたつの台をどけてみたら隙間から紙が出てきて、「何だろう?」と思って見てみたら、脳の絵が描いてあり「多発性硬化症」と書かれていました。病気の症状が書いてありました。夫が仕事から帰ってきたときに「これって誰のこと?」って聞いてみました。夫が「なんかこんな病気らしいわ。でも、自分さえ気持ちがしっかりしてたら大丈夫ちゃう?」ってサラッと答えました。
 「難病」のことを知らないと言うこともあり、深く落ち込むことはありませんでした。

 

>治療を始めてからはどんな生活だったんですか?

 体調には波があり、年間7~8回入退院を繰り返す生活。薬の副作用で顔は「ムーンフェイス」になり、髪の毛が抜けたりしました。親戚の子に「お姉ちゃんいつも飴食べてるなあ」と言われるくらい、ほっぺたがパンパンに膨らんでいました。そんな状態だったので友達と会うことを避けて、元気だった自分のことを知っている周囲の人にそういう自分を見せたくないという気持ちがあって、引きこもった時期もありました。入退院を繰りしつつ「早く社会復帰したい」と思いもあり、リハビリに励む日々が続きました。

 

>外に出られるようになるきっかけがあったんですか?

夫がパンクロックが好きで、私もすごく興味を持ちました。「足引きずりながらでもいいから、パンクのライブに行こうぜ」って言われて「私、顔もこんなんやし嫌やわ」と言いましたが「行ったらええやん」って感じで夫に連れて行ってもらいました。いざ行ってみたら、刺青やモヒカン頭の人たちが、拳を上げて大声で歌っていました。それを見て何か解放されたというか、病気になっても楽しみたいと思いました。別に白黒はっきりしなくてもいい、難病やからこうでなかったらいけないとかは関係ないと思いました。そこからは気持ちの切り替えが早かったです。 

玄関入ってすぐの掲示スぺースに飾られている「喜」の文字
(玄関入ってすぐの掲示スぺースに飾られている「喜」の文字)

とりあえず、楽しもうか

>しがなんれん作業所の立ち上げにもかかわってらっしゃったとのことですが、それはどんな経緯だったんですか?

 病気を発症してから約3年間、誰にも日常のしんどさを相談ができなかったので、滋賀県難病連絡協議会に勇気を出して電話をかけました。「医師からあなたは難病ですと言われて、私はこれからどうなるんでしょう」とかそんなことを話したら、「患者会や医療講演会などあるし来ませんか」って言ってくださいました。患者会の人たちと交流を持つうちに私にも何かできることはないかなと思いました。何年かたったときに、患者会の方に「難病のひとたちの働く場として作業所を立ち上げようと思うんやけど、手伝ってもらへんか」って言ってくださり、「私にできることがあったら」と思い、一緒にしがなんれん作業所の立ち上げメンバーのひとりになりました。

 

>NPO法人喜里を立ち上げるまではどんな経緯があったんですか?

 体調が安定して、しがなんれん作業所で働くようになり、難病の方や家族の相談を聞くことが増えて、自分が住んでいる地域にも「しがなんれん作業所」のような場所があればいいなと思いました。難病の人たちが安心した生活やしんどいことなどが気軽に話せる居場所があればひとりで悩まなくていいなと考えました。夫の実家が空き家でしたので、改修をしてそこで難病サロンを開きました。月に1回しか開催していなかったんですが、口コミで広がって利用される方が増えて、県外からも来られていました。
 難病サロンをしながら、しがなんれん作業所でも働いていたのですが、とある市の障害福祉課から電話があり「難病になった方がいて、日中活動の場を探しているんですが」と相談がありました。当時、知的障害、身体障害、精神障害の作業所はいくつかありましたが、難病は法律の谷間であり障害者の枠でなかった。特定疾患手帳を持っている人が利用できる作業所はありませんでした。進行性の難病を患った20代前半の青年との出会い。彼が吐き捨てるようにつぶやきました。「オレなんて生きてても仕方ない」。私が発病したときの思いと重なりました。まだ若いのに、病気になったことで、先の人生が考えられない生活を送ることは悔しいと思いました。病気があっても、自分が思うように生きられたら最高だと思いました。彼と一緒に楽しいことが出来ることを作りたい気持ちが大きくなりました。

 

>持続可能な施設を作るため、そして目の前の一人の方のために作業所を立ち上げたということですね。

 一人のためだけでなく、難病になったからと楽しみを持たず、一人で悩み生活を過ごすのはどうなのか?といつも考えてました。

新しくなった建物
(新しくなった建物)

 

>法人名の由来を教えてください。

 自分一人だけが喜ぶのではなく、みんなが喜び合えて、いつでも里帰りができるようにという意味で付けたのと、ワークスペース喜福は喜びあって福を持ち帰ってもらったりできるという意味で付けました。

 

>実際の相談ではどんな困りごとが多いですか

 相談を受けている人の中には、病気の治療の話だけでなく、家族のこと、日常の困りごとの相談が多いです。社会に役立ちたい、病気は進行するけど、「働きたい」「人とつながりたい」どうすればいいかと言う相談もあります。難病応援センターだけで解決出来ない相談は、相談内容に応じて、市や保健所などと協力しながら、応援しています。

 

>新しく3月に建てられたこの場所ではどんな取り組みをされていますか

 NPO法人喜里では主に2つの事業をしています。障害福祉サービス事業の就労継続支援B型、生活介護、提供しています。難病応援センター、難病サロンちあふる、ピアサポート、カフェを運営しています。カフェは毎週金曜日、ボランティアさんに協力いただいて、難病当事者や家族の方だけでなく、地域の人たちにも立ち寄っていただくように、誰にでも来ていただいています。あとは毎月1回、ボランティアさんがチャリティーライブをしてくれます。

チャリティーライブの様子
(チャリティーライブの様子)

 

>次、こんなことがしたいと思っていることはありますか?

 私は犬猫が大好きです。病気になったときに、飼っていた犬にたくさん元気をもらいました。犬や猫の話をしたらみんな笑顔になります。ペットを連れてきてもいいようなカフェがしたいです。喜福のメンバーが接客したり、お料理を作ったりできたらいいなとも思います。
 病気あるなし、障害あるなし関係なく、みんながクスッと笑えるような居場所つくり、お酒も飲めたらいいな~、とても欲張りです。

プロフィール

藤井 美智代(ふじい・みちよ

NPO法人喜里 理事長
「ひとりぼっちの難病者をつくらない」「ひとつひとつの思いやねがいを紡ぎ難病者が安心して心豊かに暮らせるようにする」を理念にNPO法人喜里を開設。自身も難病であり、ピアサポートやサロン、難病応援センター喜里などさまざまな事業を展開し難病の方の支援に取り組む。

HP  https://kirikifuku.wixsite.com/kiri
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編集後記

 藤井さんの出会う人全員に「いつもありがとう」「こないだはありがとうね」「来てくれてありがとう」と感謝の言葉を生き生きと伝えていらっしゃる姿が印象的でした。
 インタビューはカフェスペースでさせていただきましたが、訪れるお客さんもみんな藤井さんとの関わりを楽しんでいる様子で、きっと相談に来る人も藤井さんとのお話を通してエンパワメントされていくのだと思います。難病があってもその人らしく暮らせるようにという藤井さんの思いや生き方そのものが、糸賀一雄氏の「この子らを世の光に」という言葉のように、障害があってもなくてもどんな人でも誰かの生きる光になれるということを体現されていると思いました。(聞き手:松井・山邊)