【NEW】社会福祉法人滋賀県聴覚障害者福祉協会 びわこみみの里 所長
小野 泰宏 さん

小野泰宏氏01

2021年、長年勤務した滋賀県立聾話学校の教員を定年退職して、6代目びわこみみの里所長に就任した小野泰宏さん。聴覚障害者はもちろん、様々な障害のある方の地域の居場所として、菓子製造や縫製作業などの活動に取り組み、販売などを通じて地域への理解を深めています。学生時代に福祉を志した経緯から、びわこみみの里が大切にしていること、そして小野さんのこれからなどのお話しを聞きました。(2025年6月17日 びわこみみの里にて)

大学時代に手話と出会い
滋賀で教員生活がスタート

>小野さんの経歴を教えていただけますか?

 生まれは和歌山市です。高3の時に社会福祉を勉強したいと思い立ちまして、佛教大学に進みました。孝橋正一先生という社会福祉の権威の方がいらっしゃって、教えを請いたかったんです。昭和59年のことで、40年前ですね。大学では老人福祉とか、いろいろ学んだのですが、大きな影響があったのが、たまたま入った手話サークル「なまけもの」でした。京都市手話学習会「みみずく」でも手話の勉強をしました。そこで、「手話ってすごく通じるんやな」と感じました。

>びわこみみの里の皆さんも、明るくコミュニケーション取ろうとしてくれますね。

 そうでしょ!まあ、身振り手振りでも、心と心が通じ合ったりするんですよ。そういうこともたくさん経験しました。手話ができなくても、ゆっくり面と向かって話すことで通じることもありますし、筆談を交えたり、最近はアプリの性能がよくなってきたので、スムーズにコミュニケーションする方法が増えています。

 

小野泰宏氏02
手話との出会いを振り返る小野さん

>その後は、どうされたのですか?

 3、4回生になると、手話サークルの先輩の紹介で、京都府立桃山学園の施設の宿直のアルバイトをさせてもらいました。自然と知的障害の方と関わる機会が増えていきましたね。

>いろいろな経験をされて、就職となったわけですね。

 滋賀県には障害児学校の採用枠があると聞いて受験したんです。しかし、落ちてしまった。児童養護施設で指導員として1年間勤めて、その後、滋賀の養護学校の講師に働き口が見つかって、北大津養護、今はないけれど八幡養護などに行かせてもらいました。

>落ちてしまった後も、滋賀にかかわってこられたんですね。

 桃山学園を紹介してくれた先輩から「滋賀にこんか?」と言われたんです。そこにも、人のつながりがありましたね。その後、採用試験に合格して、「(配属先は)どこになるんやろう」と思っていたら、聾話学校になりました。偶然の手話との再会で、私の教員生活がスタートしました。

小野泰宏氏03
大津清陵高校の教員時代には野球部の顧問も経験

「なんとかなる」の気持ちで所長に就任

>聾話学校では、何を教えていたんですか?

 社会科を専門で教えていたのですが、他の教科もいろいろ教えましたね。20年近く聾話学校で教師をして、このまま異動なしで定年までいくだろうと思っていたら、県の方針が変わり、20年目で草津養護学校へ。そこで7年間教えた後、50歳にして大津清陵高校の通信制に異動しました。不登校の子とか、自分の母親よりも年齢が上の生徒さんがいたりして、いろんな方々との出会いがありました。軟式野球部の顧問もやったんですよ。ちょっとやんちゃな子たちもいて『ルーキーズ』みたいなチームでした(笑)。

>いろいろな経験をされるなかで、とまどいはありませんでしたか?

 野球部の監督は、とまどいましたね!(笑)少しだけ経験があったのですが、キャッチャーに上げるノックが難しいんです。奈良の天理高校と試合したこともあったのですが、あのユニフォームの前で、よく下手なノックしたなって思います。大津清陵高校では、日本史を教えて、5年間、教員をしました。そして、最後は聾話学校に戻ってきて、2021年に定年を迎えました。どこへ行っても「なんとかなる」とは思っていたのですが、実際にいろいろなところへ行って、周りの方に支えられながら「なんとかやってきたな」という思いです。

>定年を迎えて、びわこみみの里に来られたのですか?

 退職を機に、まったく別の仕事がしてみたいなと思っていたんです。考えていたのは、2種免許を取得したのでタクシーの運転手。観光タクシーで歴史の話をしながら、楽しく観光案内できないかと思っていました。しかし、ちょうど新型コロナウィルスが流行して、需要がなくなってしまったんです。そんなとき、滋賀県聴覚障害者福祉協会から声をかけていただきました。支援員か指導員かと思ったら「所長や」と言われたからびっくりしましたね。それで現在に至ります。

>いきなり所長に就任するというのは、大変だったのでは?

 やっぱり、「なんとかなる」という気持ちでしたね。学校で教えていたことが役立つこともあるのですが、仕事はいろいろで、送迎にも行くし、生活相談とか利用者さんのケースも抱えています。なんでもやるのは教員時代と同じです。

小野泰宏氏04
利用者さんの明るい笑顔があふれるびわこみみの里

社会と繋がる大切な場所として

>利用者さんと接するなかで、特に気を遣っていることはありますか?

 ここを利用される方は、皆さん自立されているので、日常それほど気を遣うことはありません。盲ろう(視覚と聴覚の重複障害)の方も通われているので、行動面で気を付けることはありますが、コミュニケーションは触手話ができるので、ほぼ問題ないですね。ただ、関係機関との連携や生活相談は頻繁にあります。各々に応じたきめ細やかな対応を心がけています。これらは、びわこみみの里に気持ちよく通っていただくために、とても大切なことだと思っています。

>びわこみみの里は1996年に前身の「33企画(みみきかく)」が誕生して始まった施設ですね。

 法人(滋賀県聴覚障害者福祉協会)が創設30年、びわこみみの里は来年で創設20年です。当事者の方々が中心となってできた施設ですから、ここは当事者の方の居場所なんです。現在は、聴覚障害者以外の方も何名か通っています。30名定員で28名。社会と繋がる第一歩としてここを利用されて、次のステップに進まれる方もいます。

>びわこみみの里ならではの取り組みはありますか?

 ここでは聴導犬の訓練をやっているなど、びわこみみの里「らしさ」はあると思います。B型と生活訓練の作業所なので、利用者がいないと運営面が難しいです。課題は利用者さんの高齢化。最近、65歳問題というのがありまして、65歳になると介護保険に切り替えるという流れがあります。

>切り替えられる方が多いんですか?

 ここにおられる方は継続されるんですけど、新たに65歳を超えた方がB型ということになると、市町で対応の違いはあります。聾話学校の生徒数が減っているという現状もあります。地域に出ていく方が増えていますね。

垣根がなくなりつつあると感じつつも
障害への理解は、まだまだ途上

>「耳が聞こえない、聞こえにくい」という障害は、健常の方と見分けがつきにくいので、理解が得られにくい障害といえますよね。

 その通りですが、垣根がなくなりつつあると感じるところもあります。以前と比べると、手話は言語の1つという理解が広がっているし、テレビ番組の文字情報サービスのおかげで、聞こえない人と一緒にドラマを楽しむこともできます。今年はデフリンピックが東京で開催されます。聾話学校の卒業生も出場するのですが、関心の高まりを感じています。

 

小野泰宏氏05
聴導犬の活動を紹介するイベントを開催して理解を深めている

>地域の方に、聴覚障害の人の生活や聴導犬の存在などを知ってもらうことも、みみの里の大切な役割なんですね。

 地域との交流の機会を深めて、より地域に開かれた施設を目指しています。年に1回ですが、おまつりを開催して地域の皆さんに集まってもらうこともあります。大々的に企画しているので、300人ぐらい集まってくれますよ。地域の手話サークルや学校にも販売を広げて、理解を深めてもらう活動などもしています。

>びわこみみの里で販売されているグッズを見ると、福祉の施設で作られた商品という以上に、買いたくなるような質の高さを感じました。

 そう言っていただけると、うれしいですね。「福祉の品物だから買ってください」ではなく、品物の質で勝負しているんです。それは開設した当初から変わらない方針で、ずっと本物を届けたいと思ってやっています。

小野泰宏氏06

>JRA(日本中央競馬会)の馬の調教用ゼッケンを再利用して、かばんなども作られていますね。

 steedというブランドでバッグを作っています。steedは社会就労事業振興センターがいくつかの障害者施設を繋いで実現した事業です。びわこみみの里では主に縫製を担当しています。洗浄は若竹作業所とか、施設ごとにそれぞれ役割があります。かなり高額のバッグとして販売しているのですが、とても人気のある商品です。

小野泰宏氏07
steedのバッグの縫製を担当
小野泰宏氏08
小野泰宏09
国スポ・障スポの会場でボランティアと耳の聞こえない人が筆談するために、コミュニケーションツールを制作している

「みみの里があってよかった」という利用者の声のために

>地域との交流をより深めるために、計画されていることなどはありますか?

 びわこみみの里として地域に打って出ていくというのは、毎日を回していくことが大変で、なかなかできないというのが現状です。まずは、今の施設を維持していくことがとても大事なことです。利用者さんから「みみの里があってよかった」という声が聞かれるんです。利用者さんの退職後の居場所として、次の仕事へつなげる場所として、大切に守っていきたいと思います。ボランティアの方も増えてきて、本当にいろいろお世話になっています。施設も古くなって雨漏りしたりもしているので、なんとか資金作りをして、居心地のよい場所にしていきたいと思います。

>小野さんご自身が、今後の展開として考えていることはありますか?

 やっぱり、未練を残したタクシードライバーでしょうか(笑)。それは、冗談ですが、実は私には石の趣味というものがありまして、遠足の下見で大津の田上山に行ったのがきっかけです。現在、鉱物鑑定士という資格を持って活動しています。休みの日には京都にある益富地学会館というところに行って、指導員をさせてもらっています。3階が標本展示室になっていて、たくさんの石が並んでいるんです。全国から石好きの人が訪れます。そこで質問に答えたり、案内するのが楽しいですね。みみの里のおまつりで、宝石探しをやっているのは、実は私の趣味を兼ねた企画なんです(笑)。

 それから、もう1つ、これは趣味ではないのですが、10年ほど前から養育里親をやっています。最初に預かった子が今では大学3年生になって、ときどき帰ってくるんです。福祉の勉強をしています。今預かっている子は、5年一緒に暮らしています。本当にいろいろなことがあるのですが、これからも里子との繋がりは大切にしていきたいと思います。手話との出会いが人生の節目ごとにすばらしい機会を与えてくれました。そのことに感謝しています。

小野泰宏10
小野泰宏氏11
びわこみみの里は、様々な利用者の大切な居場所として存在している
プロフィール

小野 泰宏(おの・やすひろ

小野泰宏氏121961年生まれ、和歌山市出身。京都市在住。佛教大学卒業後、児童養護施設の指導員、養護学校の講師などを経て、滋賀県立聾話学校の教員となる。19年間、社会科などを教えた後、滋賀県立草津養護学校に異動。滋賀県立大津清陵高校通信部では日本史を担当。再び聾話学校で教鞭をとり、2021年定年退職。退職後、社会福祉法人滋賀県聴覚障害者福祉協会が運営するびわこみみの里の所長に就任した。




編集後記

小野さんが「利用者の居場所の大切さ」を強調される背景には、びわこみみの里の前身「33企画」が発足するにあたり、聴覚障害者の福祉的就労の場を作ろうと運動されてきた先人の思いがあります。テクノロジーの発達により、一般企業に就職したり、聞こえる方と同じ作業所で活動する方が増えていますが、一方で、うまく馴染めず、居場所を失ってひきこもる方もいらっしゃいます。
「みみの里があってよかった」
その一言のために、課題に向き合うびわこみみの里の取り組みは、「自覚者は責任者」という言葉を残した糸賀一雄先生の活動と共通しているように感じられました。(聞き手:赤澤・藤田)