糸賀一雄記念賞の受賞者をお祝いすることを目的に、社会福祉法人グローが開催している糸賀一雄記念賞音楽祭。その実行委員長を長年務める中谷満さんに、ご経歴や障害のある人と音楽を通した関わりについてお話をお聞きました。今回は前編として中谷満さんのご経歴やその素顔に迫ります。(2025年5月15日 レンタルスペースRiseにて)
すべては転校生のマリンバ演奏を聴いたことから始まった
>ご経歴を教えてください。
1945年の8月15日に終戦を迎え、父が満州から帰ってきて、それで母と出会うというか、お見合いで結婚して僕が生まれました。 母が言うには 「満」という名前は満州にちなんでいるみたいです。そんなことで1949年6月13日に生まれて、今年(2025年5月)で75歳11か月です。今度76歳になるから昔でいえば喜寿ですね。
家族は代々国鉄職員で、じいちゃんは駅長までやっていました。僕は田舎の長男だから家を守れと言われていましたね。素直な満君はそんな環境で育ってね(笑)。田んぼも手伝ったりしていましたよ。音楽的な教育は特になく、家に卓上木琴みたいなものがなぜかあって、母が演奏していたのが耳に残っているぐらい。専門的に勉強したことはなかったです。 とにかく素直な満君は、すくすく育ちました(笑)。
>音楽と関わるきっかけは何だったんですか?
小学校5年生だったか、クラブに入る必要があったとき、同じくらいの時期に転校してきた双子の姉妹が、転校記念の挨拶代わりにマリンバを演奏したんです。それが上手だったんですよ。とても心に残っていて、彼女たちが入るクラブに入ろうと思って音楽班に入りました。音楽班といっても鼓笛隊だったのですが、女の子ばっかりで、男は僕一人だけでした。だから、「シンバルをやれ」「大太鼓をやれ」と言われて、重たいものを持つことが多かったです。まったく音楽的なセンスがない僕に、いろいろと音楽のことを教えてくれた先生がいたんです。 それが音楽と関わりだしたきっかけです。
他にも5、6年の担任の先生が、なぜか給食の時に音楽をかける人だったんです。 それもクラシック。聞けとも言わないし、題名も言わない。食事しながら聞いて、食事が終わったら先生が「何か物語を作りなさい」と言うことがありました。「魔王」という曲だったら音が「ダダダダダダダダダダダダ」って鳴るので「怖い」とかね。 そういう音を聞く経験は、その先生との巡り合わせがあったからかなと思いますし、自分にとって大きな影響を与えてくれた経験だと思います。

打楽器に引き寄せられ続けた学生時代
>本格的に打楽器を始められたのはいつ頃ですか?
6年生の時に、「中学校にはこんなクラブがあるよ」という宣伝で、中学校から吹奏楽部が来て演奏会をしてくれたことがありました。それを見て感化されて、中学校で吹奏楽部に入部しました。その時はトロンボーンという楽器に憧れていましたね。正直言うと音楽班の経験から太鼓は嫌だったんです。楽器は重たいし、 同じことばっかりするしで、トロンボーンが格好よく見えました。 いかにも演奏していますという感じがしたので(笑)。何がやりたいかと聞かれたときに「トロンボーンをやりたい」って言ったら、「背も大きいし、手も長そうだからやりなさい」と言われて、念願のトロンボーンを担当することになったんです。でも夏に打楽器の先輩が抜けたので、打楽器に人を回すことになりました。 僕を含む3人がピックアップされて、まずみんなで1か月練習しようとなったのですが、僕は経験者だったので「お前がやれ」と言われて、夏からは打楽器の担当になりました。もちろん楽しくやっていましたがね。
高校は大津高校へ行きました。中学の吹奏楽部の先輩もいたので、高校でも吹奏楽部に入部しました。楽器を選択するときに「お前何やってたん?」と聞かれて、「トロンボーンをやってました」と言い張ったのですが、打楽器の先輩に引っ張られて、高校でも打楽器になりました。
>高校でも吹奏楽部に入部されたとのことですが、オーケストラのプレーヤーを目指すきっかけは何だったのでしょうか?
高校の音楽の授業がとても専門的だったんです。後に役立つのですが、聴音とか専門的なことを普通の授業の中でやっていました。その音楽の先生が卒業生を送る会を2月か3月にやっていました。 1年生のときは、遊びやぐらいに思っていたのですが、2年生の時の卒業生を送る会で、先生が繋がりのあるオペラ歌手を呼んできたんです。その歌手の歌声を聞いて、いたく心に残りました。次の日、先生に「音楽って何ですか?」 と聞いたんです。先生も「どうしたの?」 って。「昨日歌を聴いてすごく感動して、音楽をやってみたいと思うのですが」と言ったら、「中谷君、あなた打楽器向いてるよ!打楽器やりなさい。オーケストラのプレーヤーになったら?」と、唐突に言われました。よくも音楽の知識や経験がゼロベースの僕に言ったなあと。だって高校2年の終わりで進路を考えないといけない時ですよ。のんびりしていますよね。今思えば先生や学校のこのスタンスがすごく良かったと思います。素直な満君ですから、「はい!」と答えて進路を決めました(笑)。
オーケストラのプレーヤーになるという将来の方針を決めてからは、やはり「専門性が必要だ」と言われ、京都市立音楽短期大学を目指すことにしました。その短大に膳所高校出身の打楽器奏者の素晴らしい先輩がいて、先生からも「天才肌の人がいるからその人に習いなさい」と言われて、打楽器のレッスンを受けました。ピアノは音楽の先生にレッスンを受けて頑張ったのですが、やっぱり1年弱のレッスンでは落ちましたね。
>音楽の道に進むと伝えたときの家族の反応はどうでしたか?
受験のことを父に言った時は「何を考えているんだ!」と勘当ものでした。 おばあちゃんが助け船を出してくれて「学校の音楽の先生になると言いなさい」と言ってくれました。父も「先生になるのか!なら公務員やな!」と納得してくれました。しかし、「東京へは行くな!私学はお金がないから金は出せない」とも言われました。まあ、当たり前ですよね。そうなると選択肢は京都市立音楽短期大学、もしくは大学の先生になるというこじつけからいくと大阪教育大学も受験しました。
1年目の受験で落ちた時、父に「もう一度勉強させてくれ」と言ったら、1年だけ許可が出て、浪人することになりました。打楽器の指導は引き続き先輩の先生に、ピアノや音楽理論は中学でお世話になった先生のところに行きました。あとは京都の予備校に行きましたね。とにかく1日の時間が足りないんです。朝6時に起きるために家に来ていた牛乳配達のおっちゃんにお願いして、10軒ほど手伝うから配達のバイトをさせてくれと言って牛乳配達もしていました。すごく真面目にやっていると思うでしょ? 全然真面目じゃなかったんです(笑)。予備校も午前中の授業が終わったら嫌になって、夏場は涼しい場所を見つけて2時間ぐらい外で寝たりしていました。 多分、家族は真面目に予備校へ行っていると思っていたんじゃないかな。 のんびり屋でしたから打楽器の先生も焦っていましたね。 秋に説教されたのを覚えています。今でも「あんだけ怒っても、あんだけ言っても、中谷君は漫然としてたね」と言われます。「僕はやってるつもりだったんです」と言いますが(笑)。
そんな浪人生活でしたが、無事に京都市立音楽短期大学に合格することができました。ちなみに短大に合格したと思っていたら、その年に京都市立美術大学と統合されて京都市立芸術大学に入学することになったんです。先生から1年間の浪人生活は意義があったと言われたけれど、自分でもそう思います(笑)。

1本の電話から繋がった大阪フィルハーモニーへの道
>どんな大学生活を過ごされたのですか?
入学してみると、みんな小さい時から音楽を専門でやってきた人ばかりでした。特に歌、ピアノ、バイオリンの専攻の人たちは、物心がついたらやっていたような人たちで、家が裕福で、本当に優秀な人たちばっかりでした。一方、僕は中学ぐらいからちょっと上手やと言われて乗せられて、その気になって入っているようなもんですから、音楽的にも優秀ではなく、あからさまに劣等感、能力差を感じていました。でも僕は打楽器の仲間と、打楽器という専門性の中でどうやって生き抜くかと考え、最低でもこの学校の中では上手にならないといけない、そのなかでチャンスを狙え、という話をしていましたね。のんびり満君でしたが、ちょっとお尻に火がついてきたという感じでした。
>大学に入学してからは音楽漬けの日々だったんですね。大阪フィルハーモニー交響楽団へはどう繋がっていくんですか?
ある日アンサンブルの練習をしていたら、大阪フィルに入っていた先輩が来て「中谷君最近よく見るね。何の曲やってるの?」と声を掛けられました。その時練習していた曲を答えると「同じ曲を明日、大阪フィルの打楽器奏者の人が芦屋で演奏するから行ったら?」と言われました。電話番号を教えてくれたのでその場で「中谷と申します。 明日伺いたいのですが」と電話すると「おいでよ」と返事をもらえたので演奏会に行きました。当日は演奏を聞かせてもらい、片付けを手伝ったりして「ありがとうございました」って言って帰ろうとしたら、その打楽器奏者の人に「これから打ち上げがあるから来い!」 と言われて、その辺は厚かましい満君モードで打ち上げに行くことにしました。打ち上げは、大阪フィルの当時のトップのメンバーが十何人と座っていて、僕は末席に座らされてという感じでしたね。みんなでワイワイやってるので当たり前ですが僕に話をしてくれることはあまりなかったです。でも、一人のメンバーが「お前、よく飲むなあ。ほんで、これから何がしたいねん」と話しかけてくれたので「オーケストラのプレーヤーになりたいと思ってます」 と答えたんです。そうしたら「そうか、ほな一回エキストラに来るか?来週8人ほど必要やからお前も来い」と言ってくれました。それがきっかけで大阪フィルにエキストラとして行くことになり、その後、大阪フィルの打楽器担当の人が留学することになってポジションが空くので、オーディションを受けてみないかとお誘いをいただき、受けることしました。オーディションを受けた人は7、8人いたかな? 楽員の前で演奏しましたが、なんと合格したんです。そんなことで3年生の3月ぐらいに契約をすることになりました。

どんなにすごい先生でも自分と同じように悩んでいることに気が付いたとき、気が楽になった
>大阪フィルハーモニー交響楽団に在籍されてからを教えてください。
3年ほどやっていましたが、やっぱり劣等生なんです。叩かれるというか、実力的に難しかったです。今、大学生に教えていても思いますが、大学の4年間ぐらいで全てがわかるわけがないんですよね。大学からいきなりプロに入ってそれを消化していくっていうのは難しいです。学生時代、本番に携わる回数は4年で15回程度、それも適当にやっていたのですが、大阪フィルでは練習は1日、やっても3日。それでステージは年150回です。うち100回はプログラムが全部違う。本当に必死でやっていましたが、みんなから「あそこができてない」「大きい」「小さい」「速い」「遅い」「違う」と言われて、かなり悩みました。僕は「もうあかん、3年やってこれでは、これから20年やっていく力はない」と思って、「辞めよう」と思うようになりました。大阪フィルの先輩に相談したら「勉強しに行け」と言われました。留学について調べたら、ドイツは授業料がいらなかったんです。それで父に相談したら「月10万円送ったる。1年間ぐらい勉強してきてもいい」と言ってくれました。当時のレートで10万というと、ドイツでは6万円ぐらいの価値で、家賃が相場で3万円ぐらい、残りが3万円で1日1,000円で過ごすという感じですね。そんなことで、なんとか資金面はいけそうだということになり、大阪フィルの設立者の人に話をしたら、ドイツにいる指導者に手紙を書いてコンタクトを取ってくれて留学が決まりました。 実はその時には結婚していて妻がいたのですが、留学が決まったと報告したら「子どもができた」と言われ、「何で決まってから言うの!」と怒られました。結局、留学には行けることになりましたが、妻にはいまだにこの件で弱みを握られています。
>ドイツでの留学生活はどのようなものだったんですか?
ドイツでは1年間、とてもよく頑張って勉強したなと思います。毎日、演奏会に行って400回ぐらい聞いたりしました。 全部チケットも貼って残してありますよ。ベルリンのオーケストラを先生の横で一緒に聞かせてもらったりしましたね。そんななかで感じたことは、僕の大尊敬する先生ですら、仲間から注文されたり、指をさされたり、僕にも「お前はあの人の弟子か?あいつは音が汚い!」 とか言われるんです。派閥もあったりする。世界一のオーケストラで、世界一の先生でも、日本にいた時の僕と同じようなことに悩んでいることに気づいたんです。そこで少し気が楽になりました。世界のオーケストラのプレーヤーのレベルになっても戦っている。それでも心折れずに強いハートを持って、技術力も演奏力も自信満々で演奏している姿を見て、そういうものを身に付けないといけないなということを学びました。そして負けないために勉強をして、上を向いて一生懸命音楽と向き合っている。日本にいた時の僕は、怒られたらただ悩んで、落ち込んで、上手だねと言われないといけないと思い込んでいたなと。だから演奏する時は、思い切ってやろう、思い切ってやるためにベースの技術、知識、下準備をもっとしっかりやろう、と思うようになりました。留学中に勉強をやり切ったということではないのですが、ドイツに行ってそういう方向性が見えましたね。
あとはいろんな人に出会えたことも良い経験でした。ドイツにも日本人はたくさんいましたが、みんなが超一流でした。そういう仲間づくりができたこと、それからドイツ語もちょっとしか喋れないけど習得して、異文化に触れて、音楽が生まれ育った町で過ごしたということも良い経験でした。

>留学後、再び大阪フィルで打楽器奏者として活躍されますが、どうして日本に戻られたのでしょうか?
しょっちゅう大阪フィルの音楽監督である朝比奈隆がベルリンに来ていて、 会うたびに僕のケアをしてくれていました。留学が終わるころ一緒に食事に行くと「大阪フィルに帰ってこい」と言ってくれたんです。既にヨーロッパのオーケストラに行くことが決まっていて、半分その気だったのでどうしようかと悩みました。お世話になったドイツの先生に迷っていることを伝えたところ、「それは帰った方がいいよ!7か月の子どももいるんだろう!」と言われて帰ることにしました。帰国してから33年、留学前と合わせて35年間、大阪フィルで打楽器奏者として演奏をしました。大阪フィルを退団したあとは、吹奏楽の指導をしたり、大学の先生になったりといった活動をしていました。
中谷 満(なかたに・みつる)
1949年、滋賀県大津市生まれ。1968年、滋賀県立大津高校、1973年、京都市立芸術大学音楽学部打楽器科卒業。同年、大阪フィルハーモニー交響楽団に入団。1977年から1年間、旧西ドイツ国立ベルリン高等音楽院に留学。2008年大阪フィルを退団、相愛大学教授に就任。現在も相愛大学音楽部、相愛大学大学院音楽研究科教授を務める。滋賀県音楽振興会会長。関西打楽器協会副理事長、びわ湖芸術文化財団理事。2011年より糸賀一雄記念賞音楽祭の実行委員長を務める。2018年滋賀県文化賞受賞。
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