(令和2年7月9日 オフィスゆうきにて)
「オフィスゆうき」として活動するようになった経緯
特別支援学校の高等部を卒業後、就労継続支援B型の事業所さんで主に組み立て作業をしていたんですよ。クリスマスの時に売られているお菓子を入れる長靴を組み立てたり、シール貼りや、名刺を作ったりと、手を使う作業をずっとしていたんです。作業をしていく中で、その仕事が好きとか嫌いとかではなくて、自分に向いてるのかということを考えたんです。僕の個人的な意見ですが、自分の障害に対して細かい作業をすることが自分に合っているのか?お客さんに対してクオリティの高いものが自分にはできるのか?という思いが働いている中でありました。だんだんと細かい作業ができなくなったり、片手しか使えないので、生産的に厳しいし、向いてないなと思いました。
その後、まちかどプロジェクトさんの演劇(生活介護)に関わらせてもらって、作業ではなく、演劇や講演活動をさせてもらいました。その活動を通じて、自己表現や自分を発信していくことを仕事としてやっていくことにすごく魅力を感じました。
でも、いろんなことをさせてもらう中で、次の思いが出てきました。県外に仕事に行かせてもらうことが増えてきて、その時に先方から「来られますか?」と聞かれたときに、自分の考えで「行きます」と自分で決めてやっていきたいなということです。責任はもちろん伴いますが、自分で決断して、仕事を受けたり断ったりと、関わってくれる人と直接やりとりしたいと思いました。これまで、全部自分で決めることが出来なかったことの方が多かったのです。7年ぐらいまちかどプロジェクトで活動させていただきましたが、自分に正直になってみようかなと思って、退所し「オフィスゆうき」として活動を始めました。
独立してから気づいたこと
僕は、何かやろうと思ったときに、慎重に考えて動くというよりは、直感で動くタイプなので後々困りました。独立して講演活動をやっていこうと決めたのですけど、よく考えたら、どうやって営業したらいいんだろうと……。以前はまちかどプロジェクトに講演依頼の窓口があったので、自分で営業をしなくてもお仕事をいただけたり、仕事の管理も職員さんがしてくれていました。一人になってそこで初めてハッと気づいたのです。これまで、すごく助けられていたし、守られていたんだなと。そこから、法人のイベント企画等の運営をされている知り合いの方がいたので、「営業はどうやってやるんですか?教えてほしいです」と思い切ってお願いしました。「パンフレットや名刺を作った方がいい」とか、いろいろ教えてくれました。そして、「一回だけ教えるからあとは自分でやれ」と言われました。そこから、自分一人で考えるのでは無理だと思い、いろんな人に相談するようになりました。これまで事業所の職員さんに全てお願いをしていたので、自分からお願いをして、いろんな人の知恵や力を借りてやるというのは、今まで全くなかったんです。独立したら助けてくれる職員さんはいないので、何かやるときに、その都度一緒に考えてくれたり、応援してくれる人を自分で探しました。そこはすごくしんどかったんですけれども、喜びもありました。
営業で学校などに電話をしてアポ取っていこうとしたら、結構、断られるんです。誰も僕のことを知りませんし、「車椅子です」と言うと「大変なので来なくていいです」と言われたり……。だから、飛び込みで直接いろんなところに営業に行きました。そこでびっくりしたのは、一人で行くと、相手の人にものすごくポカンとされるんですね。「健常者の人が付き添ってないんですか?」「なぜ一人でやっているんですか?」みたいな質問をされるんです。障害があるとサポートしてくれる人が常に一緒にいるでしょうみたいに思われています。僕が電話を取っても必ずマネージャーみたいな人がいると思われていて、「いや、いません」と言いますが、なかなか伝わらない。世の中、こんな感じです。常にヘルパーさんがいるみたいな感じに思われている。それにすごくびっくりして、見え方が変わったんです。事業所に通所しているときは、気付かなかったんですけど、どこに行ってもそう言われるので、すごく悩んでいました。結局、営業は怪しまれるので、いろんな人の紹介やSNSを介してやっていこうと考えました。今はいろんな人とのつながりがあるので、依頼が来るのを信じて待つ。そのかわり何でもします。最初は、講演の仕事なんてないから、ボランティアで風船を配ったり、募金活動など、何でもしました。講演はしたいけど、いきなりさせてくださいとは言えないので。でも、誰かの紹介だと仕事が入りやすいです。紹介してくれる人をお互い知っているので、相手もあまり怪しまない。人と人のつながりというのが大きいですし、僕がやっぱり動きにくい分、そこで助けられているなというのがあって、ありがたいと思っ ています。
自分の人生や家族の人生
僕は実家を出るまで、いわゆるヘルパーなどの介護サービスを全く使ったことがなかったんですね。家族の介護のみで、生活が回っていました。ただ、それには限界があると家族を見ていて感じていました。僕には双子の弟がいるんですけれども、両親が仕事の時は、弟が介助をしてくれるんです。小さい頃はいいんですが、思春期になってくると、ショックでした。僕のことで弟の時間が取られてる、やりたいことができないみたいなことが、けんかの中で増えていく。それを言われたらやっぱり言い返せない。してもらってるのも事実ですし、実際に、彼の時間を僕に使っている分、弟のやりたいことができない、僕がこの時間家にいるから帰ってこないとあかんと、どうしても制約ができてしまう。19歳ぐらいのときでした。もし親に何かあった時、自分はどうなるのかなと考えるとすごく不安でした。その時に思ったのは、僕が家にいると、なかなか親孝行は難しいなということでした。僕ができることは、家を出ることなんじゃないかなと。それによって僕は、僕の時間や人生を生きるし、家族は家族でそれぞれの人生を生きる。僕は「してあげている」と言われるのもだんだん嫌になって、窮屈になって家を出たいと思いました。その頃は、親といろいろバトルがありましたけど(笑)。だって、周りに一人暮らしをしている障害者がいないので、模範がないんですよ。「一人暮らしをしたい」と言っても「いや、この身体で何ができるの」みたいな。家族だからド直球で言います。それに対して僕も経験がないし、論破できない。結局、行動を通して見せていくしかないのかなと。ヘルパーさんに来てもらいながら暮らすという生き方があるということを、3年かかろうが、5年かかろうが、10年かかろうが、見せていくしかないのかなという思いで……。だからいろんな人に相談をして、チームみたいな感じで、支援者の方に集まってもらいました。そして、スポーツバック1個で家出したんです。部屋には、カーテンも何もなくて、タオルケットだけフローリングにペロッと敷いて(笑)。冷蔵庫も最初の頃はなかった。だから、ヘルパーさんが家に来ても「家事援助って何を援助するのか?違う援助がいるんじゃないか」みたいな。そして、地域にすごい人がいるという感じですぐにケース会議が開かれました。
講演活動は“種まき”
講演活動をしている中で、気づいたことがあります。福祉のお仕事をされている方に講演をさせてもらっても、福祉の仕事の現場で初めて障害のある人と出会うんです。「脳性麻痺って何?」「障害のことは分からへん。障害者って、今まで僕の周りにはいなかったです」というのはよく聞きます。学校や身近な場所でもっと早く出会っていたらと思います。僕の講演で障害のある人と初めて出会ったという人もいます。だから、僕はその初めてを大事にしたいと考えています。僕の活動は、例えると“種まき”みたいな感覚です。僕が講演したからといって急に花がぱっと咲くことはないんですけれども、話を聞いてもらったことがきっかけで、障害者に対する考え方が少し変わったり、日常の生活場面で出会ったときに、今までやったら無視をしてたけど、ちょっと声をかけてみようかなと思ったり、エレベーターのボタンを押してくれたりとか、そういうことで十分助かるので、何かその人の中で一つでも意識が変わればいいなと思います。
福祉の職員さんの研修をさせてもらっても、障害がある人は「暗い」「しんどそう」とよく言われます。当然、いろんな人がいますが、障害があってもなくても「同じやで」ということをずっと伝えています。でも、障害者と出会ったことがないと、同じと言っても伝わりません。それをいかに分かりやすく伝えるために、言葉では難しいのでビデオや写真を見ていただいたりしています。相手と自分の共通点を見つけられるか、というのはすごく意識しています。障害があるとかないとかではなくて、趣味でも何でもいいんです。好きなことや、好きな食べ物など、一つでも共通点があれば、壁を超えられると思っています。障害がある人とない人じゃなくて、人と人としての共通点。人権の話では、あまり「差別」というワードを使わずに話すことを意識しています。「差別」というワードを使った方が正直しゃべりやすいし、話もまとめやすいですけど、話が重くなるので、「差別」を使わずに軽くしゃべろうとしています。
続けていくことでの変化
講演活動以外にもお笑い活動としてM-1グランプリの予選に出ました。でも、そこに障害者がいるという発想がそもそもないので、その時はしんどかったですね。二人でスーツを着て、ちゃんとエントリーナンバーをつけて行ったんです。エントリーしているのに、受付のお姉さんが、「車椅子の方が二人来て、出たいとおっしゃってるんですけど……」と。そして、観客と思われて車椅子席に案内されたので、もう一度説明すると「まだ、出ると言っているんですけど……」みたいな。そしたら、上の人が降りてきて、「申込書と写真があった」と言って僕が送った写真と見比べて、「これや」みたいな。そのときは障害者差別解消法とかなかった時ですから、何が起こってもなんでもありなんです。だから、最初はそんな感じでした。それからR-1グランプリの予選に一人で出たりしました。そして、続けていくと、変化があったんです。スタッフさんが僕のことを覚えてくれていて、だんだん優しくなって、車椅子を上げるのが去年より上手になっていたりとか。僕も変わった部分もあるけれども、周りの人もちょっと柔らかくなったというか、そういう変化がありました。
困った時はチャンス⁉
車いすの人が一人で電車に乗るときは、駅員さんに介助してもらって乗ります。駅員という職業の人がいるゆえに、その人に任せておいたらいいやと周りの人は思っていると思うんです。駅で困っていても駅員さんに言えばいいや、ヘルパーさんが側にいるんだったら、ヘルパーさんがしてくれるでしょう、という部分があると思います。もちろん駅員さんやヘルパーさんがいるのはありがたいし、それで助かっているんですけれども、そこで、少し壁ができる場合もあるんだと思っています。一人で移動することは当然リスクもあって、困ることもあるんですけれども、あえてそれを作る。物を落としても自分では拾えないので、それをどう頼むか、その都度、考えるんですよね。ヘルパーさんがいたらやってくれるので、自分で考える機会が減ります。なので、課題をあえて作るみたいなことをします。しかし、それには賛否あります。ヘルパーさんを使って出かけた方が安心だし、わざわざ周りに迷惑をかけてみたいな意見もあるんですけれども、僕は一人でいると周りの人とコミュニケーションが取れるので、この機会は大切だと思っているんですよね。困っていることを自分で発信していくことは大事かなと思っています。自分が困っていることと同じことで困っている人は、多分世の中にいっぱいいる。自己満足やと言われることもあるんですけれども、同じ悩みがあっても周りに言えない人もいるんじゃないかと思って、あえて困りごとを出しています。全然知らないおばちゃんに、ICOCAを拾ってもらったり、靴が脱げたら知らないおっちゃんに靴を履かせてもらったりとか。その出来事がきっかけで障害について何か知ってもらったり、出会いや面白さがあります。大阪は、何も言わなくても来てくれますが(笑)。もし、一人で全部できたら、これまでの出会いは一つもないんですよ。ピンチはチャンスみたいな感じで思っていると、どの場面でもそんなにしんどくないと思います。
人生の質について
よく、「チャレンジしてますね」と言われるんですけど、自分ではチャレンジをしている感覚はないです。M-1グランプリの予選に出たのも、お笑いが好きだし、出なくて後悔するのなら、とりあえず出たい。結果はどうなるか分からへんし、そこで追い返されたとしても、僕の中では自分自身の気持ちに正直になることが当たり前かなと思っています。
僕の障害は治ったり、よくなることはないので、10年前に比べると身体が動かしにくくなったり、出来ないことが確実に増えていっています。でも、自分の人生の質が下がってるかと言うと、下がってないんです。周りはどう思っているか分からないですけど、僕はそう思っているし、言いきれます。10年前に比べて、すごくたくさんの方々に出会って支えてもらっているので、出会いがあるから行動できる。行動して、あかんかったら相談ができるし、リベンジもできます。もう一回やってこれは合わないなと思ったらやめるという選択もできます。講演活動などを通じて、出会いの数が増えました。出会いの数が増えていくことによって、経験することが増えたり、僕が想像もしてなかった仕事が増えました。
世の中のエレベーターが全て無くなったとしても、人が手伝ってくれたら、段差を上げてくれたり、解決できることがあるのと一緒で、全部バリアフリーになるのはありがたくていいんですけど、逆にすごくさみしさも感じるんだろうなと思います。技術が発達して伸びる機械の腕があったら、ICOCAは自分で拾えると思うんです。でも、おばちゃんに拾ってもらうという出会いは、なくなるんだろうなと思うと、ある程度、世の中に困ることがある方が面白さってあったりするのかな。そこから、違うアイデアが出てきたりとかするのかなと思います。今までの経験で感じたことは、人と人との出会いのありがたさを、常々思っていますね。
中川 佑希(なかがわ・ゆうき)
オフィスゆうき代表・障害者差別のないおおつをめざす会代表
2010年6月から大津市内でアパートを借り自立生活を開始。2018年5月オフィスゆうき設立。講演活動を中心に障害者の人権啓発に努める。
「オフィスゆうき」のHP
編集後記
中川さんは、講演活動を通じて、人との出会いや新しく経験することが増えたとおっしゃっていました。また、困ったときやピンチはチャンスと捉えて、自分から困りごとを発信することで出会いを作っています。糸賀一雄氏は、最後の講義(※)で「人は人と生まれて人間となる。生まれてからだんだんと精神が発達して、人間と人間の関係で育てられていく。人間関係こそが人間の存在の根拠である」とおっしゃっていました。生まれながらにして、自立している人はいません。人間は誰でも生まれた直後は一人で立つことや、寝返りさえもできません。障害の有無に関わらず、生きていれば誰でも、ピンチや困りごとなどの障壁の前に立たされます。そして、誰かを助けたり、助けれらたりしながら、お互いにその障壁を乗り越えて生きています。改めて、人との出会いや人間関係について考えさせられました。
※1968年9月/滋賀県児童福祉施設等新任職員研修会/大津
(聞き手 佐倉・石田)