佐子完十郎(さこ・かんじゅうろう)さん
かんちゃんの小さな家


佐子完十郎(さこ・かんじゅうろう)さんは、様々な困難に直面している、マイノリティの立場に置かれている子ども・若者を、子ども・若者の側(尊厳)から支援する民間有志のボランティア活動グループ「かんちゃんの小さな家」の代表をされています。37年の教職経験をもつ佐子さんは、スクールソーシャルワークの理念と実践を基盤に活動されています。教員という原点から現在の活動に至るまでの経験をもとに、佐子さんが目指すソーシャルワークや多文化共生の活動について、お話を伺いました。
(令和2年6月3日 「かんちゃんの小さな家」にて)

教員としてソーシャルワークを始める  

 私は、工業高校機械科を卒業して民間企業で働くなかで、社会福祉に興味・関心を向けている自分に気づきました。仕事をしながら受験勉強や大学で学んだことは、とっても懐かしい想い出です。企業を退社して社会福祉学部Ⅱ部(夜間)に入学、途中でⅠ部(昼間)に転部という経過をたどって社会福祉学部を卒業しました。卒業後は、滋賀の県立学校・養護学校教員としてスタートすることになりました。

 1981年、国際障害者年開幕のつどい「安土音楽祭~わたぼうしコンサート~」を安土小学校体育館で開催しました。当時、私は県立八日市養護学校高等部で教員をしており、安土音楽祭わたぼうしコンサート実行委員会の副実行委員長としても関わっていました。ちょうどその頃、高等部の保護者の方から「卒業後の進路、就職先がない」という話がありました。社会福祉協議会やさまざまな思いを抱く関係者の方々と話をしながら、子どもたちが働ける場を作ろうということで、わたぼうしコンサートのその後の事業として、「ひとりぼっちの障害者をなくそう」を理念に「きぬがさ作業所」の設立をめざしました。当時は、地域福祉サービスはほとんどありませんでした。だから、作業所を立ち上げる運動は、福祉的というか、生きることそのものでした。お母さん、お父さんの「卒業してからどうしよう」という思いがあって、学校の教員が地域の方と連携して作業所など、ないものを作っていこうと取り組んだのです。「必要な資源をつくる」「ないものはつくろう」ということは、ソーシャルワークの一つだったのだと、振り返ってみて後で気付きました。

「スクールソーシャルワーク」との出会い  

 養護学校に5年間在籍して、その後、高校に異動になりました。ですから、その後はずっと高校の現場で「障がいのある生徒とともに学びあう実践」ができました。 自分が生徒指導の教育相談の担当になったときに、一つの転機がきました。当時の学校長から「半年間、大学院で研修する事業に申し込まないか」という話を聞きました。私は、教育相談の担当として悩んでいたこともあり、思いきって応募しました。その結果、半年間の研修の機会を得るとともに、その後も「土曜ゼミ」という臨床教育学ゼミの事例研究会に5年間、学び続けることができました。

 研修先の大学院の図書館で見たのが「スクールソーシャルワーク」の本でした。世界のスクールソーシャルワークの実践が紹介されている文献があって、「これだ!」と思ったんですね。大学院のゼミでは、さまざまな実践をされている先生と出会ってびっくりすることばかりでした。共通することは、「あなた自身を見つめ直せ」「教員として、生徒に関わっているあなた自身のことを問わずして、この子に何かしようというのは無理だ」ということでした。無理というよりも、例えば、「子どもと先生が関わっている。でも、鏡に写し出したらその子どもとあなたが写っているよね。あなたがその子どもに対してどう関わっているのか、そこをしっかりと、もう一度問い返すべきですね。」ということを臨床教育学ゼミで学びました。

周りの環境にアプローチしていく  

 当時の学校の生徒指導の場合は、いわゆるペナルティ、謹慎や懲罰で「問題行動」をおこした生徒を矯正する、正していくというような指導でした。でも、それでは限界だというのは、スクールソーシャルワークを日本で最初に取り入れ、ワーカーとして埼玉県で活動された山下英三郎さんがおっしゃっていました。

 高校現場で教員をしていて、聴覚障がいのある生徒や進行性筋ジストロフィー症候群という難病、内臓の疾患で車いすの生活をしている生徒たちとの出会いがありました。その出会いによって私の「固定的な意識・観念」が大きく揺さぶられ、その後の私にとっての教育実践の「礎」というか「宝」になっています。また、外国籍の生徒が、例えば「学校に来ない」「やんちゃしてる」「落ち着きのない生徒」というような「現象面」だけが問題視されてしまって、背後にある経済的な困難等、さまざまな要因が本人の責めにされている、という現実にも気づかされました。 学校の現場では、「生徒の家庭の問題がどうなっているのかは福祉の分野であって、福祉に任しておけばよい。」「学校の中にそれを持ち込まれたら忙しくて仕方ない。」という言葉をよく聞きました。でも、スクールソーシャルワークの視点からは、家庭の問題が解決しない限りは、その生徒自身が落ち着いて学べないし、人権・同和教育の実践で学んできた「進路保障」につながらないと思っています。障がいのある生徒、外国籍の生徒をはじめとする、さまざまな困難に直面している生徒は、ともすれば本人を励まし頑張らせることに重きが置かれがちですが、むしろ「変えるべきなのは周りであって、個々の生徒をとりまく環境にアプローチしていくべきだ。」というのがソーシャルワークなのだろうと思います。

 

佐子さんが高校の教員をされていた頃の教え子の追悼文集

「山本哲也君追悼文集」1993年 
「・・・日ごろはあまり話をしないけど、母や妹・弟に、教会や海へ行ったことを実によく話していました。こんなに喜んで話をするのは初めてです!最高に楽しかったようです。」と、修学旅行後の家での様子をお父さんから知らされ、私の方こそ彼と一緒に行けてよかった。そして、2年3組の仲間と一緒に行けてよかった・・・と、つくづく感じていたものです。

文集より 五島列島への修学旅行(高校2年):「担任の想い出」
「この本には、筋ジストロフィーという難病と闘いながら二十年の人生をかけぬけるように生きた一人の青年のことが、様々に語られています。またそれは、まるで鏡のように、彼と関わりを持ち、いくばくかの時間を共有した人のありようを写しだしていることにもなります。こうした出会いこそが、人生のなかで何か価値あるものを創出するのでしょう。限りある人生の途上で、彼と出会えたことを、今しみじみとうれしく思います。」

文集の編集後記より一部引用(編集委員:宮田正道さん)

「対等」にものを言う立場  

 教員をしながら、社会福祉士としての活動をしていました。個人的なつながりで、「クラブ活動で教師から外されている」「嫌がらせを受けている」「暴力を受けた」ということを聞いて、その保護者からの相談を受け、「同席して代弁する」こともありました。保護者の方とある高校へ行き、学校長と話をしたことがあります。でも、やっぱり非常に冷たい対応で、言葉としては「分かりました。それはごもっともです」と言いながら、体罰をくり返す教師はそのまま顧問に残っていました。結局、その生徒はクラブを去って行かざるを得なかったのです。その時、私は、何ともできない無力さを感じていました。そういう憤りをもっている人は、知られていないだけで、もっとたくさんいると思います。 暴力や体罰の問題や、子どもが発するさまざまな課題が生じたときに、学校に対して「対等」の関係で話ができ、相談ができ、子どもの側(尊厳)から支援できる組織・機関等が必要だと思いました。いうまでもなく「子どもの権利条約」が基盤になります。そこで、学校や教育委員会のような教育行政に属していない外部のワーカーとして活動するために、独立型の福祉事務所をつくりたかったのです。教員を退職し、2014年に立ち上げた「かんちゃんの小さな家」は、そういう場所にしたかったのです。でも、独立型の福祉事務所で、学校の外部に位置する社会福祉士として本当に地盤が固められるかといったら、そうでもないのです。今は、学校のスクールソーシャルワーカーもしていて、学校の外側と内側の双方から活動し、今後のあり方を切りひらいていきたいと思っています。 最近は、学校内部でもスクールソーシャルワークへの理解がすすんできているように感じます。じわじわと空気を温めていくというか、社会の空気を変えていく。自分の活動の底流に流れているものはそこの部分かなと思ったりします。

「かんちゃんの小さな家」と多文化共生  

 「かんちゃんの小さな家」は、さまざまな困難に直面している子どもたち、マイノリティの立場に置かれている子ども・若者を子どもの側(尊厳)から支援することをめざして立ち上げた民間有志のボランティア活動グループです。相談ルーム、多文化共生・地域交流(ホットルーム:子ども食堂)、学習サポート教室といった活動等をしています。 私は、立ち上げた当初から、外国籍のスタッフの方々とともに活動し、外国籍の子どもや若者のとの出会いがありました。外国籍・外国にルーツをもつ子どもたちが、いろんな面で不利益を受けている。個々のニーズを受けとめ、実現していこうと取り組むなかで、「多文化共生」という視点が活動の軸になっていったのです。 活動を始めて1年が過ぎた頃に出会ったのが、県の社会福祉協議会の事業で、「遊べる・学べる淡海子ども食堂」の事業でした。ここは、子ども食堂として食事を提供するだけでなく、多文化共生を軸に外国籍・外国にルーツをもつ人々とともに、いろんな国の文化や料理を教えてもらって、一緒に作って食べて、交流して、つながっていく子ども食堂です。だから、「かんちゃんの小さな家」のさまざまな活動の入り口として来てもらい、知ってもらう、そういう意味での活動が「かんちゃんホットルーム」になってきて、それが今はすごく広がってきています。

 「多文化共生」と言っても、近江八幡市の安土学区に、外国籍の子どもたちがたくさんいるわけではありません。よく言われるのは、「なぜ多文化共生なの?」って。私は、むしろ、そのように問いかけてもらうことを大切にしています。教室の中に一人でも外国籍・外国にルーツをもつ子どもがいたら、その子どもが安心できる場になってほしいと考えています。また、このような取り組みは、一人ひとりが大切にされる、だれもが安心できる教室、学校、地域になっていくと考えています。外国籍・外国にルーツをもつ子どもや保護者のニーズを受けとめ、活動へとつなぐ営みは、スタッフ自身の学びの場にもなっています。

「かんちゃんの小さな家」外観
「かんちゃんの小さな家」室内の様子

オーダーメイドでサポートさせてもらう  

 学習サポート教室では、マンツーマンで勉強を教えています。今は10数名の子どもがそれぞれ週1回、学んでいます。就学前の子どもも日本語を勉強したいということで、ブラジル人の子どもたちがここに来ていました。不登校の子どもや障がいのある子どもたちも安心して学んでいます。 ある子どもは、最初に来たとき、ここに置いてある本や物を全部ぐちゃぐちゃにして遊びました。その後も何回か来てぐちゃぐちゃにしたのですが、それをそっと見守っていたら、治まってきました。学校でも家でも「よい子」で「問題のない子」。でも、自分を安心して出していける場を求めていたのですね。一人ひとりの子どもがとる行動には、その子どもの大切なメッセージが込められていると思い、真剣に向きあっています。 相談ルームという活動を軸にしようと思っていましたが、そこにニーズというものが当然出てくるでしょうし、ニーズを確認しながら、どういうふうに具現化していくか、形にしていくかということを考えてすすめています。

 「いろんな違い、思いの交錯があるかもしれないけれども、それぞれの考え方や思いをもった、そういうみんながいていいんだよ」というフィールドをつくりたい。決まった手法があるのではなくて、一人ひとり出会ってみて、その人に向きあい、手探りで活動をつくっていきます。だから、「ここはオーダーメイドですよ」と言っています。「こういうスタイルでいきます」というのではなく、その人のオーダーメイドをサポートさせてもらう。利用者さんのニーズをスタッフが受けとめて、次第にできてきた「道(みち)」に同じ「形(もの)」はないのです。

 

「かんちゃんホットルーム」2019年6月
かんちゃんホットルーム 号外

プロフィール

佐子 完十郎(さこ・かんじゅうろう)

「かんちゃんの小さな家」代表

1954年生まれ。日本福祉大社会福祉学科卒後、県立八日市養護学校、栗東高校、国際情報高校などを経て特別支援学校・高等学校の教職経験37年。(公社)滋賀県人権教育研究会(滋人教)研究推進部研究員。01年のSSW研究会しが発足時から代表。日本スクールソーシャルワーク協会元理事。現在、スクールソーシャルワーク研究会しが代表(事務局:近江八幡市)、NPO体罰をみんなで考える会監事(事務局:大阪)

 

かんちゃんの小さな家のHP 

かんちゃんホットルーム号外

 

編集後記

教員としてスクールソーシャルワークを長年実践されてこられた佐子さん。その中で出会った方や見えてきたニーズが「かんちゃんの小さな家」の活動につながっていました。印象的だったのは、多文化共生のあり方について、いろんな文化や考え方があり、「違いはあってもいい」ということです。また、一人でも困っている子どもが教室にいたら、その子が安心できる場が必要。学校の中だけでなく、そのようなフィールドが地域にできること。スクールソーシャルワークとはそういうことではないか、と学ばせていただきました。
佐子さんは、スクールソーシャルワークについて、自分自身を見つめ直すことが大切だということに気付いたとおっしゃっています。それは、糸賀一雄氏の教育の思想にも通底していると言えます。糸賀氏は、「教育の本質的な構造は人間関係であり、その構造の中で自分自身との対決を深めることが重要である」と語っています。相手を変えるのではなく、自分自身を見つめ直すことが、社会福祉の実現に欠かせないことなのだと改めて思いました。

(聞き手 佐倉・石田)

※SHIGA-FUKUでは、「障害」「子供」と表記していますが、今回のインタビューでは、インタビュイーの希望により「障がい」「子ども」としています。