竹原智也(たけはら・ともや)さん
コミュニティひろば もみの木

NPO法人stand.理事長 竹原智也(たけはら・ともや)さんは大学では福祉を専攻し、卒業後は支援者として日々の支援現場で起こる様々な課題に向き合ってこられました。そんな竹原さんに、支援者としての歩みのきっかけや日々の現場支援から考えることをお伺いしました。
(平成30年6月18日 コミュニティひろばもみの木にて)

福祉の仕事に従事するきっかけはどのようなことがあったのでしょうか?

福祉の仕事を考えるようになった背景には、同級生A君の存在がありましたね。彼は、筋ジストロフィーという難病で、歩く力が弱くなっていくので、彼のいるクラスの教室はずっと1階でした。私はよく彼と同じクラスでしたが、正直なところ、自分たちだけ他のクラスと違う階になってしまいますし、休み時間に彼の移動の手伝いをさせられたりすることがとてもイヤで。中学3年でまた同じクラスになったときは、「クラスを替えて欲しい」と担任の先生に直訴しました。当然、認められない主張でしたが、それぐらい、1階のクラスになるのがイヤでした。
A君には数名「お手伝い係」の同級生がいました。彼らは、登下校での車いす介助からトイレの手伝いまでしていて、それには子供心に衝撃を受けたけど、「自分には関係のないこと」と思っていましたね。僕は彼のことを「厄介者」のような見方しかしていなかったのが本当のところです。

当時、私のクラスには運動の得意な生徒がたくさんいて、球技大会や運動会はいつも1番だったんです。私も脚は速い方で、運動会ではいつもリレーの選手に選ばれていました。中3のときの運動会予行演習での出来事なのですが、私と友達が、体育の先生に全校生徒の前で酷く叱られました。理由は、「全力で走らなかったから」。予行演習なので、全力で競技する生徒なんてほとんどいませんでしたが、私たちだけが叱られました。「A君が、あなたたちが速く走るのを見るのを楽しみにしていたのに。」とのことでした。あとで先生に教えてもらったことですが、走ることも歩くこともできなくなった彼のために、運動の得意な生徒をそのクラスに集めていたのだそうです。正直今でも、「そんなこと言われても」と思っていますが、この出来事が記憶に強く残り、私の中の何かを次第に変えていくことになりました。

A君は、私が大学生の頃に亡くなりました。中学の担任の先生から電話があり、「お葬式に行ってやって欲しい」と伝えられました。結局亡くなるまで友達らしい会話などしたことがなかったのですが、弔問に訪れました。式場に着くと、あの「お手伝い係」だった子らがいて、私を見るなり、「たけ、来てくれたんや」と言いました。私は、彼らが卒業してもなおA君との関わりを続けていたことに驚いたのと同時に彼らがとても眩しく見えました。上から目線かもしれないけど、「勉強も運動もできず、先生に叱られてばかりの生徒だった彼らが、実は私が持ちたい心を持っている人たちではないのか」と思いました。

実際はほとんど関わり合いのなかったA君たちですが、イヤイヤながらも長くクラスを共にしたこと、A君が私のような人間に期待する気持ちを持ってくれたこと、そのA君を支えた友達の優しさを知ったことで、私は福祉の世界を目指す決心ができたのだと思います。

働き始めて目の当たりにしたことや、学んだことなどを教えてください

「自分に足りないものを埋めていきたい」と思って福祉の世界に飛び込んだわけですが、現実の世界はそんな悠長なことを言っていられるところではありませんでした。

私が就職したのは、びわこ学園。大学の教科書で知った「この子らを世の光に」のびわこ学園です。ちなみに、私が受けた就職試験の課題は、「重い知的障害を持つ方々の自己決定について述べよ」という、非常に難しいものでした。周りの受験者のペンはカツカツと動いていたのですが、私は書けなかった。なので、当然「落ちた」と思っていたのですが、合格しました。就職が決まってからはもう、「重症心身障害」という言葉、「知的にも身体的にも最重度の障害をもつ方々を介護する仕事」としか、頭にありませんでした。ところが、就職前のオリエンテーションで「配属先は、行動障害を示す方々が多く暮らす病棟だから」と伝えられました。「えっ!?」と思って慌てて学園の案内冊子を見たことを覚えています。

実際に病棟を訪れたときは、想像もしなかった世界があって、正直心が折れそうになりました。異食防止のためにモノが何もない空間だったし、テレビやおもちゃ、衣服まで、カギの向こうに仕舞われていました。涎と排泄物の臭い、奇声、ほぼ裸で徘徊する方……。

それを目の当たりにして、自分は「福祉の仕事をする覚悟ができていた」のではなくて、「福祉の世界に憧れていただけ」ということを思い知りましたね。もう、キレイな、優しい福祉のイメージなんてすぐに壊れたし、就職して数か月後の異動希望調査では「他の病棟へ異動」と書きました。

毎日がイヤでしたが、そんな私にでも、期待を寄せてくださる方がいました。就職して数か月が経った頃、部長から「仕事が終わったら家に来ないか」と誘っていただき、驚きましたが寄せていただくことにしました。最初は緊張ばかりしていましたが、聞かせていただけるお話が楽しくて、気づけば毎週のように自分から訪ねていくようになっていました。

部長が私に期待してくださったのは、私には「戸惑い」と「疑問」があったからだそうです。「いつか行動障害を示す方々の生き方を語れる職員になって欲しい」というお言葉を頂いたことを覚えています。期待の心を寄せていただいて、やっと、本当の意味で福祉の世界に足を踏み入れられたのだと思います。

それからは、いつまでも第三者の傍観者だった自分を捨て、「自分が」という気持ちで支援に取り組めるようになったと思います。ですが、そういう思いで行動するにつれ、「自分はダメだ」と思うことも余計に増えました。行動障害に介入することは、本当に難しいことです。結局、4年でびわこ学園からは逃げてしまいましたが、辞めてみても他にやりたいことはなかったです。

大阪の実家に帰り、近所の作業所で臨時職員をすることにしました。そこは、初めて働く通所施設でしたが、経管栄養の方もいらっしゃる、重症心身障害に近い方々が通所されており、作業所といっても作業は一切しない、迎えてから帰るまでただのんびり過ごすだけのようなところでした。現場の責任者は会社をリストラされて福祉の世界に入った方で、「僕は何も知らないから、何もできないから」と、私に謝っていました。そんな彼を見ていて、私は次第に「何もできてないのは私の方だ」と思うようになりました。作業も療育的取組も何もなかったけれど、その責任者さんは全力で、利用者さんに笑ってもらうことを考えていたのです。40代の会社をリストラされたおじさんが、顔を真っ赤にして変な顔を作り、冗談を言い、とぼけた行動をして、利用者さんは涙を流して笑っていました。

それを見て、「このおじさんは彼らに必要とされているんだ」と思いました。「援助技術」とか「専門性」とか、それらは当然大切なことだけど、私はそんな術を何ももたない「何もできないから」というおじさんに、福祉の魅力を再発見させてもらいました。「人が求めているものは、まず人なんだ」と。

利用者さんと作業進捗確認中

現在は、もみの木を運営するという立場ですが、どのようなことを大切にして事業運営をされていますか?

びわこ学園でお世話になった部長からお声掛けをいただき、大阪の作業所を辞めて、もみの木の所長職に就くことになりました。福祉の仕事を本格的に続ける気持ちに戻れたわけですが、所長では「運営」という課題にも向き合わなければなりません。

「運営」はやはり「お金」です。お金がなければ設備も良くできないですし、人材を確保することも難しい。私には「あるお金でなんとかする」という能力が辛うじてあるだけです。お金を増やす術は利用者を増やすことしか考えられないのですが、その利用者が対応困難な方であるとその分職員の数も必要になり、場合によっては「利用者が増えたから運営が困難になる」ということが起こります。単純すぎるかもしれませんが、そこが「一般企業の経営」とは異なり、「福祉事業の運営」の難しさだと思っています。

「もみの木」は利用者8名の無認可作業所として産声をあげましたが、次の利用者を受け入れるまで4年弱かかりました。実は開設したその年に、当時の「強度行動障害特別処遇事業」を使って3年の施設入所を終えたあと、在宅に戻られる方の利用受入の話がありました。実習もしてもらって検討したのですが、様々な事情があり、その方の受入はお断りすることになりました。福祉施設には「応諾義務」がありますが、私は所長になって最初の利用希望者を受け入れることができませんでした。

もみの木 店舗スペース正面

今思うと、順序の後先はどちらでも良かった気もします。もっと養護学校などに出向いて、「利用者の受入」をアピールして、早く、少しでも運営を安定させることを考えるべきだったとも思います。「運営を早く安定させることができれば、その分対応困難な利用者を受け入れる余地もできたのではないか」と。ですが、最初の利用希望者をお断りしてしまったのに、「他の利用者を受け入れます」と宣伝することはできませんでした。だから、次の誰かが「もみの木」に問い合わせてくれるのを待っていました。開所から4年近く経ってやっと、「他の作業所で通所できなくなった方がいらっしゃるので相談にのってもらえないか」という問い合わせを受けたわけです。

その頃には「自立支援法」上の施設への移行が始まっていましたので、その方がどんなに対応困難な方でも引き受けるつもりでした。でもやっぱり他の作業所に通えなくなったぐらいの方でしたので、受け止めは大変でした。声掛けは全く聞いてくれない、動くのもイヤ、作業なんて絶対にイヤ、自分の思い通りにならないとモノを壊そうとする、勝手に出ていく、仕舞いには職員を叩こうとする、という感じでした。常に唸り声をあげていたので、他の利用者さんも近づこうとしませんでした。作業課題は数分で終えられるようなものだけにし、まずは居場所を作っていくことに苦心しました。狭い建物ですが利用者が少なかったことでなんとかベースとなる居場所を作ることができ、そこを拠点にコミュニケーションをとり、作業・活動にもより長く巻き込んでいくことができました。利用開始から10年を迎えようとしていますが、休まずに通所を続けてくれています。

もみの木 喫茶スペースで販売中の手作りお菓子

ですが、彼一人の新たな受け入れのために、既存の利用者の支援が疎かになってご家族から苦情も受けましたし、授産事業の展開や自立支援法移行後の事務処理などにも大きな支障を来しました。正直、「無理して受けるんじゃなかった」と思いました。行動障害を示す方々の対応は本当に大変。びわこ学園では、「異食行動がある方がいらっしゃったから、居室には自由に触れることのできるモノが何もなかった」わけです。一人、一つの問題行動は、他の利用者全員に大きな制限を加えてしまうのが実状です。言葉は悪いかもしれませんが、行動の課題は施設全体にダメージを与えてしまうのです。

しかし、受け入れできないことと、それを堂々と公言することは、また別の次元の問題だと思っています。福祉事業者にもできることの限界がありますが、だからと言って門前払いはせず、「相談を受け、断った」という呵責を引き受けるべきだと思うのです。それが、次に繋がる「断り」になるように。「事業所の安定運営」ばかりに目がいって、そういう基本的な「福祉」の視点が欠けてしまってはいけないと思ってます社会や行政にあり方を問う前に、視点はまず、自分たちの足元に最大限向けられるべきだと思っています。

支援者として頑張っている若手職員に向けて一言お願いします

価値観が多様化し、人権意識も高まり、障害者の福祉も着実に進歩してきたはずです。ですが、進歩した分、職員に求められることも多くなりました。私が就職した20年前のびわこ学園では、職員が利用者をケガさせるようなことも幾度かありましたし、私自身も利用者を叩いた経験があります。また逆に、利用者にケガをさせられた職員もいました……。職員も利用者も、決して聖人ではないですよね。いつでも穏やかな心で居られるわけではない。生身と生身の人間同士が向き合うのですから、喜怒哀楽すべての感情が交錯します。

施設長となって会議などに出席すると、虐待のケースなどが報告されることがあります。出席している施設長の中には、「虐待なんてあり得ない」というような発言をされる方もおられます。理想ではそうですが、私は自分が実際に叩いた経験があるので、「あり得ない」なんて言えることがあり得ません。

私は先にも述べてきたとおり、自分自身が発展途上の人間です。施設長の立場ですから本来は相応しくないのかもしれませんが、雇用する職員に思慮を欠いた発言や対応があったとしても、上から一方的に叱責・指導することはできません。利用者さんには申し訳ないですが、若い職員たちに失敗の経験の機会を、振り返って考える時間を与えてあげて欲しいと願います。職員も利用者も、失敗と成功の両方を糧に、成長していくものではないでしょうか?利用者の「自己実現」を支援することが職員の仕事ですが、私たち職員にもやはり「実現したい自分」がありますよね。

今の福祉の方向性が間違っているとは思いませんが、窮屈さを感じています。一つの失敗も許されないような風潮があって、失敗の原因は、すべて職員や施設の資質の問題に帰されてしまいます。ほんの僅かな異常なケースを除いて、福祉の門を、「障害者をいじめてやろう」と思って叩く者などないと信じます。肩の力を抜いて、全力で笑わせることしかできないような職員が、「良い職員だ」と言われる福祉の世界であって欲しいと願います。利用者とともに、支援の現場で日々彼らと向き合っている職員が、最大限に尊重される福祉の世界であって欲しいと思っています。

プロフィール

竹原智也(たけはら・ともや)

NPO法人stand.理事長

関西学院大学 社会学部 社会福祉専攻を卒業後、びわこ学園に入職。
自傷、異食等の行動障害を有する「動く重心」といわれる方々の支援病棟で支援者として従事する。その後、平成19年NPO法人stand.の立ち上げより初期メンバーとして参画し、就労継続支援B型事業コミュニティひろばもみの木の所長として現職に至る。

NPO法人stand. コミュニティひろばもみの木